日蓮聖人のお言葉一日一訓
4日 法華経の功徳
うえ の あま ご ぜん ご へん じ
上 野 尼 御 前 御 返 事 にいわく
 いっさいきょう    さき ぜんごん なし のち ほとけ な  とく        ゆえ  ふじょう          
 一切経の功徳は先に善根を作て後に仏とは成ると説く。かかる故に不定なり。法華経と申すは手に取れば
そのて                との    そのくちすなわち  たと   てんげつ        は  い       そのときすなわち
其手やがて仏に成り、口に唱うれば其口 即仏なり。譬えば天月の東の山の端に出づれば、其時 即 水に
かげ う                                     ゆえ                               ひとり
影の浮かぶがごとく、音とひびきとの同時なるがごとし。故に経にいわく。もし法を聞くこと有らん者は一として
じょうぶつ       うんぬん
成仏せざること無し、云々。
もん            たも                                                   な      もん   
 文の心はこの経を持つ人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成ると申す文なり。

 ふつう、あらゆるお経の功徳は、まずさきに善い行いをしたのちに仏になれると説いている。そのために、はじめから仏になれるかどうかは決まっていない。しかし、法華経というには、それを手にとれば、その手はたちまち仏になり、口に唱えればその口がそのまま仏なのである。それはちょうど、天にある月が東の山のはしにでて照っていると、そのときただちに月の影が水に浮かぶようなものであり、音とひびきとが同時に聞こえるようなものである。
 そこで、法華経には、「もし法華経を聞いたならば、ひとりとして仏にならないものはない」と示されている。このお経の心は、法華経を信じたもつ人は、百人は百人ながら千人は千人ながら、ひとりもかけないで仏になる、ということなのである。


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