日蓮聖人のお言葉一日一訓
27日 仏性をあらわす
ほっ け しょしん じょうぶつしょう
法 華 初 心 成 仏 抄 にいわく
  わ こしん            ほんぞん    たてまつ    こしんちゅう ぶっしょう                      あらわ たも ところ
 我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕われ給う処
 ほとけ  い     たと   かご なか とり                           ごと      
を仏とは云うなり。譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も
い          ごと  くち みょうほう  たてまつ        ぶっしょう          あらわ たま ぼんのうたいしゃく
出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給う。梵王・帝釈の仏性はよばれて
われら        ぶつぼさつ            よろこび たも  もししばらくもたもつものはわれすなわちかんぎすしょぶつもまたしかなり
我等を守り給う。仏菩薩の仏性はよばれて悦び給う。されば若 暫 持 者 我 則 歓 喜 諸 仏 亦 然  と
と  たも                 さんぜ                  ごじ  もっ ほとけ な たま                しゅっせ
説き給うはこの心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり。三世の諸仏の出世の
ほんかい いっさいしゅじょうかいじょうぶつどう                     これら  おもむき よくよく                       がまんへんしゅう
本懐、一切衆生皆成仏道 の妙法と云うは是なり。是等の趣を能々心得て仏になる道には、我慢偏執の心なく
              とな たてまつ もの
南無妙法蓮華経と唱え奉るべき者なり。

  わが心にある妙法蓮華経を本尊とあがめたてまつり、信ずる心をささげて、わが心の中の仏性が法華経への帰依をあらわして南無妙法蓮華経とよびよばれてあらわれるところを仏というのである。たとえば、籠の中の鳥がなくと、空を飛んでいる鳥もその声によばれて集まり、空を飛ぶ鳥が集まってくると、籠の中にいる鳥も空に飛びでていこうとするように、口に南無妙法蓮華経と唱えてみ仏をおよびすれば、わが身の心の中にある仏性もよばれて、必ずあらわれるのである。
 そのとき、天上界にいる梵天王や帝釈天などの法華経の守り神の仏性もよばれてあらわれ、わたしたちをお守りくださるのである。み仏や菩薩たちの仏性もよばれて、法華経を信じているすがたをご覧なされてよろこばれるのである。もし少しの間でも法華経を信じ行うものをみると、釈迦牟尼仏はただちに心より喜び、もろもろの仏も同じように喜ぶと説かれている、というのはこの意味なのである。そこで、過去・現在・未来のもろもろの仏も、この妙法蓮華経の五字によって仏になられたのである。過去・現在・未来のすべての仏がこの世にあらわれた本当の心が、すべての生きとし生けるものに、みな仏の道をなしとげさせようとするところにある、というのは、これである。これらの内容をよくよく心得て、仏になる道のためには、うぬぼれや我欲の心にとらわれないで、ひたすら、まっすぐに南無妙法蓮華経とお唱えなさるべきである。


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