日蓮聖人のお言葉一日一訓
12日 親と子
こう にち ぼう ご しょ
光 日 房 御 書 にいわく
にんげん せい            
 人間に生をうけたる人、上下につけてうれえなき人はなけれども、時にあたり、人々にしたがいて、なげ
                 たと    やまい     いずれ やまい           これ      やまい
きしなじな(品々)なり。譬えば、病のならいは何の病も、重くなりぬれば是にすぎたる病なしとおもうがごと
  しゅ           おや        めおと                                   しゅ      た  しゅ
し。主のわか(別)れ、親のわかれ、夫婦のわかれ、いずれかおろかなるべき。なれども主はまた他の主も
        めおと                こころ        こと        おやこ              つきひ
ありぬべし。夫婦はまたかわりぬれば、心をやすむる事もありなん。親子のわかれにこそ、月日のへだつる
                                そうら  おやこ                    こ  
ままに、いよいよなげきふかかりぬべくみえ候え。親子のわかれにも、親はゆきて子はとど(留)まるは、同
 むじょう                                    わか こ                  こと
じ無常なれどもことわりにもや。おいたる母はとどまりて、若き子のさきにたつなさけなき事なれば、神も仏
                    おや こ        たま                たま              たま
もうらめしや。いかなれば、親に子をかえさせ給いてさきにはたてさせ給わぬ、とどめおかせ給いて、なげ
  たまう  こころ
かせ給らんと心うし。

  人間として生をうけた人は、身分の上下にかかわらず、愁いのない人はいないけれども、時により人に応じて、その歎きはまちまちである。たとえば、病というものは、つねにどのような病でも重くなれば、これ以上の病はないと思うようなものである。主との別れ、親との別れ、夫婦の別れ、そのどれをとっても、いずれ劣らぬ歎きである。けれども、主人と死に別れてもまた別の主人につかえることもできる。夫婦のどちらかと死に別れても、またかわりを迎えれば心をなぐさめることもあろう。しかし、親と子の別れだけは、月日がたてばたつほど、いよいよ歎きは深くなっていくものである。親子の別れにおいても、親が先立って子がとどまるのは、同じ無常とはいえ、順序であると思って心をなぐさめることもできよう。だが、老いた母はとどまり、若い子が先立つとは、あまりになさけないことである。神も仏もうらめしい、どうして親を子どもにかえて先に立たせてくれなかったのか、親をこの世にとどめさせて歎かせるのであろうか、と悲しみにくれていると思うと、わたしもつらい気持ちがするのである。


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