当ホームページで大変お世話になっております創画会創立会員・日本画家《信太金昌》画伯は平成27年1月6日午後5時28分、入院先の飯能市の病院で 肺炎のため死去されました。お誕生日は大正9年1月19日ですからもう13日で満95歳を迎えるところでした。
こよなく古里「秋田」の自然を愛された先生の作品は、数多く私たちの脳裏に写し出されております。
2005(平成17)年1月4日から2月13日まで秋田市の千秋美術館にて開催された『風景を描く〜秋田ゆかりの日本画家たち〜』と題し企画展が催され、期間中、1月16日 信太先生のギャラリートークが行われました。この模様を先生の承諾のもとビデオ撮影し、44分にまとめた映像をDVDに制作しました。
3枚作り、一枚は信太先生へ、一枚は千秋美術館へ贈呈、一枚は私のところと。
ここに当ホームページをご覧の方に生前の信太先生のお姿を偲べるようメディアファイルに変換しました。どうぞウインドウズメディアプレーヤーを通してご覧下さい。
尚、うまくプレーヤーが連動しない場合は、スマホ等でも見られるようYouTubeに投稿、アップしましたので、こちらからでも見られます。
信太金昌ギャラリートークを見る |
〜ストリーム方式 44分06秒〜 |
2011.12.24 信太先生より頂いた色紙絵 「福寿草」 91歳 |
第42回 創画展 2015 故 信太 金昌 上野公園・東京キ美術館(平成27年10月21〜28日) 〜2001(平成13年) 第27回 春季創画展出品 「過ぎ越す季節」 が飾られました〜 |
1951(昭和26)年 「森の夢」 第15回新制作展 |
【近 作】
2005(平成17)年 「叢々白日」 第31回 春季創画展 |
2006(平成18)年 「春遙の中に」 第32回 春季創画展 ギャラリートークを見る |
2007(平成19)年 「見返り峠」 第34回 創画展 〜最後の秋の出品作となる〜 |
2008(平成20)年 「帰春三里」 第34回 春季創画展 〜最後の春季創画展出品作となる〜 画伯88歳 |
先日は私事、八十八歳「米寿」祝年のお祈りとともにお札を頂戴致しまして誠に身に余る光栄に存じております。また、郷土の美味しいキリタンポなど頂き厚く御礼申し上げます。 春季展作品は一昨日にお陰様で搬入出来ました。50号の作品の画題は「帰春三里」キシュンミサトにしました。三里の一つは、私自身の出身地。二つは、貴久城寺で、制作出品しました終戦直後、第二回日展「紅の秋」ーーー(特選候補)、第一回創造美術(佳作賞品)以来今日に至る絵を描く私の出発点です。三つ目は、現在独り身の私、飯能です。 二本の白い樹と一羽のタカの変身など画面の中心にしました。御高覧賜れば幸いに存じます。 平成二十年 二月二十二日 信太 金昌 |
久城寺 小倉 孝昭 御上人様 |
2003年1月12日 久城寺にて撮影大正9年(1920)1月19日 秋田県三種町に生まれる。
東京美術学校日本画科在学中、1943年第6回文展に「干潮」初入選。44年東京美術学校卒業。戦後当初は日展に出品。47年第1回展より創造美術展に出品。50年第3回創造美術展で「秋」佳作賞。創造美術協会が新制作協会日本画部として合流した51年第15回新制作協会展で「森の夢」新作家賞を受賞。52年第16回新制作協会展で「伝説のある森」再度新作家賞受賞。翌53年新制作協会日本画部会員となる。
以後、新制作協会展に出品を続け、72年第35回新制作協会展出品作「池苑惜日」文化庁買い上げ(51歳)
74年新制作協会を退会、創画会結成に参加。その後創画展に出品を重ねる一方、<朝日秀作美術展><日本現代美術展><日本国際美術展><今日の美術展><国立近代美術館><文化庁秀作美術展>等に出品。58年初の個展を開く。
60年<日本画の新世代展>(東京国立近代美術館)に出品、83年<富山を描くー100人100景>(富山県立近代美術館)に出品。
1984年秋田市文化会館にて信太金昌回顧展開催(64歳)89年(平成元年)秋田三十景ー新作展開催。
2001年9月20日〜25日、秋田市本金西武特設ギャラリーにて「画業60年を越えて」新作展を開催。
2002年11月29日〜2003年1月13日・清新な美の饗宴−現代日本画の三人展(郷土作家シリーズY)秋田県立近代美術館主催による展覧会に1947年発表「森」をはじめ2000年「閉ざされない小道」までの18点を出品。
平成27年1月6日 午後5時28分 肺炎のため飯能市の病院で死去。
享年 96
私たちが広大な自然の中で、ある情景や現象に出会ったとき、そこに感動があったり、悲しみがあったり、 喜びがあったり、淋しさがあったりします。 そう感じ取る私たちの生きている呼吸が、不変的な、あるいは永久に繰り返される大自然の呼吸に入り込 んだときに、私たちは一つの自然への対話となって「絵」を描こうとします。そして、その風景が広大な自然 の中の一部だということを心におき、自然の中の宇宙感というものを見なければ・・・。”捉えんとすれば万象 一眼に在り、吐かんとすれば一心法界に展ず” 今は亡き方から戴いた私の好きな信条であり、制作の支え です。 法界とは「摂理」の意です。 (信太金昌) |
● 信太先生とのご縁について
1951年(昭和26) 第15回新制作協会展 出品 【新作家賞受賞作品】
久城寺開創五百年を祝って・・・信太金昌先生自ら、今から53年前(当時31歳)エネルギッシュに描かれたこの「森の夢」(104,3×194,4p)をご両親の追善供養にと久城寺に寄贈されました。
平成16年10月16日・恙なく報恩音楽大法要を修し、記念誌を発行。表紙に先生のこの作品を載せさせて頂きました。
御祝いの言葉
この度の久城寺開創五百年報恩法要記念に当たり、先ず心から御祝いとお慶び申し上げます。五百年の永い久城寺の歴史が今燦然と輝いて、現お上人の真摯なる法華経流布のお力と檀信徒の皆さんの一人一人に宿る佛心への姿が大いなる久城寺の源泉であることは明らかです。誠に慶賀の極みです。
昭和二十年終戦当時、新聞記者だった私がたまたま、この寺町を歩いた時、私の目前に色とりどりのコスモスの花が咲き誇っている場で私は立ちすくんだ。敗戦で誰もがよりどころのない、むなしい日々を過ごしていたその一人の私がこの花苑に魅せられて自づと苑の奥へ奥へと吸い込まれて行った。お寺の庫裡は戸締まりもしない開け放たれていた。土間は私が生まれた金岡村の家の雰囲気にも似ていると思った。やがて、色白で長い黒髪の細身のお姿の奥様が用件のない私を気げんそろに見て、カラカラ笑った。そのお聲は澄んだ響きのある美しいお聲だった。
私は進められるまま、廊下の片隅にある藤椅子に座った。静寂なお寺の窓越しのコスモスの花には、秋風にユラユラ揺れて黒髪の奥様と一つになって私は艶やかな絵になると思った。間もなく先代のお上人様がニコニコしながら奥座敷からお姿を現された。小太りで色白でとても豊かな包容力のある表情をされていた。初対面で用件のない会話は夕方迄続いていた。佛法と芸術との共通点を見い出そうと私は懸命だった。仏法を説くお上人のお姿の左頬の片笑くぼは、慈悲深く、コスモスの咲いている窓越しの夕日に映えていた。
私は今、八十四歳を過ぎようとしている。その私がこの時以来、久城寺で培った佛心で法華経の花びら一片でも絵の奥に描きたいと思っている。
私の芸術の憧憬は、今燦々と輝く久城寺があってこそ、止むことはないないと思っている。
感謝の念が胸に迫っている。
平成16年 10月16日埼玉県飯能市 信太金昌
信太先生から頂いたお言葉。とても有難く、私の先代からのお付き合いを継承し、更に副住職に繋いで行こうとしております。
先生のご好意・ご了承を頂き、財産を共有できるインターネットで皆様のもとへ発信いたします。