秋田市建都400年記念事業 秋田市文化財展「特別展示」に寄せて |
〜秋田市建都400年記念事業〜 秋田市は慶長9年(1604)佐竹義宣公が秋田市千秋公園の久保田城に入城してから400年になる本年(2004)『歴史を想い、今日を祝い、未来へ遺す』を基本理念に、様々な文化・芸術を通して先人が育んできた歴史を顧み、次の時代を切り開く活力ある町づくりの原動力となるべく、「音楽祭・シンポジウム・歴史探訪・民謡大会・創作オペラ・書道展」等を催してきた。 イベントもいよいよ佳境に入り、10月からは秋田市の千秋美術館で前期後期に分け「佐竹本三十六歌仙絵巻」の一部「柿本人麿」「僧正遍照」(東京出光美術館所蔵・国指定重用文化財三十六歌仙切)が特別展示され、併せその模写絵巻も飾られた。これにちなみ同事業実行委員会は、総合プロデューサーに秋田公立美術工芸短期大学学長の石川好氏を迎え、日本漫画家協会を通して36人に色紙制作を依頼、11月23日その完成披露パーティーが開催された。 「平成版まんが三十六歌仙」は、日本を代表する漫画家三十六人がそれぞれ歌仙をパロディー化し、独自のタッチで表現したもの。11月24日から12月5日まで期間限定で秋田公立美術工芸短大「ももさだギャラリー」に展示される。 久城寺の位牌堂にも三十六歌仙・天井画が現存、3年前からWEBに公開している。この度の秋田市建都400年記念事業でも記念イベントの最終を飾るべく「平成版まんが三十六歌仙」の制作・発表など市民の話題を呼んでいる。 これらのイベントを「今」の私たちの生活にどう結びつけていくべきか。「僧正遍照」から少し探ってみた。 久城寺 住職 小倉 孝昭 |
秋田市の建都四百年記念事業「秋田市の文化財展」が去る10月22日から、同市の千秋美術館・赤れんが郷土館・秋田市立佐竹資料館で開催され、殊に千秋美術館では秋田藩主の佐竹家が所有していた「佐竹本三十六歌仙絵巻」(大正8年切断)上巻の巻頭を飾っていた「柿本人麿」(出光美術館所蔵)をメーンに模写絵巻を両側に開き一般公開されている。
好評のうちに11月19日からは後期展に移り、同じ出光美術館所蔵の「僧正遍昭」の切絵が展示される。展示室を入ると右側に土屋秀禾(つちやしゅうか)氏の模写絵巻、また左側には佐竹本絵巻が分断売却されたとき、元の姿を留め残そうと、当時の古筆の第一人者・田中親美(たなかちかみ)氏の筆による模写本が飾られている。
私は初めて佐竹本三十六歌仙の実物「柿本人麿」を見て、「アレッ」と一瞬我を失った。というのは、私のお寺にも三十六歌仙の天井画があり、幼少の頃より、この「お侍さん」や「御姫さま」は見慣れていた。そして、薄暗い天井でも板に描かれた日本画独特の色は鮮やかに私の目に映っていたからである。「そうだよな」この歌仙絵巻が作られたのはおおよそ今から七百年余り前、鎌倉期とされている。その時代に描かれたものだけに、「柿本人麿」の絵では、顔の部分に僅かに着色が見られ、その大部分は和紙のひびが時代の古さを示している。
この「特別展示」は私をタイムカプセルに乗せて、千百余年を行き来する「時代絵巻」をプレゼントされた、そんな気がしてならない。
私が住職している顕乗山久城寺は今年、開創五百年を迎え、その報恩法要を10月16日に奉行したばかりで、あわせ、記念誌を発行した。その記念誌の特集に、お寺の位牌堂の天井に書かれている「三十六歌仙・天井画」を編集したばかりで、檀家の方に「オッさん、いつか私たちにも、この天井画が判りやすく読めるようにしてくれないか」と宿題を与えられていたからである。
平安時代を代表する歌人は判っていても、それに付随する歌の流暢なひらがなが読めない。なんと言うことはない、私も読めない一人で、記念誌を編集する上で、じっくりこの度は勉強させられた。
デジタルカメラで一枚一枚撮影するのにも、天井(真上)を見続けることの辛さ。結構この作業は厳しかった。しかし、三十六枚もの絵を描く・歌をしたためる、そう思うとただただ感謝感謝の気持ちで一杯であった。
この歌仙のひと枠に、明治三十一年十月・怡怡齊秀俊筆と記されている。幕末から明治時代にかけて活躍した狩野派の絵師・小室怡々斎と思われる。この天井画が奉納されて今年で百六年になる大作である。
千秋美術館の特別展示・模写絵巻の作家・土屋秀禾のプロフィールに、寺崎廣業の師である小室怡々斎に絵を学ぶと記されていたから、私の心は更に躍った。
この度の展示会に、刷り上がった「三十六歌仙天井画」が載っている久城寺の記念誌を持参し、両者の絵を見比べながら鑑賞した。師匠の小室怡々斎と弟子の土屋秀禾の筆、歌人の顔はかなり違う。全体に顔がふくよかに描かれているのが土屋秀禾。引き締まって描かれているのが小室怡々斎。佐竹本の歌人ー模写絵巻の歌人ー天井画の歌人とそれぞれを観察することにより、また別の角度から興味を引きそうだ。
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さて、この19日から後期展になり、佐竹本切り絵の原画は「遍昭」(816〜890)に変わる。
久城寺天井画・僧正遍照
「僧正遍昭」は桓武天皇の孫に当たり、同じ三十六歌仙に登場する素性法師は遍昭の在俗時のもうけた息子である。遍昭は承和十二年(845)従五位下に叙せられ、仁明天皇の寵臣として蔵人・左近少将を経て蔵人頭の要職に就くが、天皇崩御に殉ずるかのように出家した。花山の元慶寺や雲林寺に住み、仁和元年(885)僧正に任じられる。平安時代初期の代表歌人の一人。「あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ」遍昭の代表する有名な歌である。
展示される佐竹本では「すゑの露もとのしづくや世の中のおくれ先だつためしなるらん」の歌が添えられている。
「すゑの露」は辛うじてとどまっている命の喩え、「もとのしづく」は末の露に先んじて消えた命の比喩。「いずれ消えることに変わりはなく、わずかな遅い速いの差にすぎない。しみじみと思えば、世の中におくれ先立つ命のためしはこれであろうか」と解釈される。
また、遍昭の繊細な優しい人柄は「みな人は花の衣になりぬなり苔のたもとよかわきだにせよ」と、親しく仕えた仁明天皇の崩じた直後の心情。諒闇の年が明けると臣下であった人々は喪服を脱ぎ、位階を賜ったりして喜んでいる・・・そうした消息を聞き詠んだ歌。「苔のたもと」は、自身が着る僧衣の袖。服喪の年が明けて春になっても、我が袖は涙に濡れ続けている。せめて乾いてくれ、という哀傷歌である。
久城寺の天井画での「遍昭」の歌は三十五歳で出家、剃髪時の思いをメモ書きしていたものを後に詠んだ歌。「たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪をなでずやありけむ」=「たらちめ」は母親。「かかれとてしも」は、「まさかこのようになると思って」と、髪を剃髪したことを言っている。「むばたま」は「くろ」にかかる枕詞で、幼少時に母がおのれの髪を撫でてくれた時のことを思い遺っての作と云われている。
このように歌仙を少し注意深く見つめてみると、今と変わらぬ人間の営みが、残り香のように彷彿と千年の月日を越えて今に再現されてくる。なんとエネルギッシュな魅了的なことだろう。
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併せ、遍昭の息子「素性法師」を見てみよう。
久城寺天井画・素性法師
「今こむといひしばかりに長月のあけの月をまちいでつるかな」=あの人がすぐ来ようと言ったばかりに、私はこの九月の長夜を待ち続け、とうとう有明の月に出逢ってしまったことだ。という意味合いの歌。「法師の子は法師になるぞよき」と無理に法師にされてしまったという逸話がある。また、法師の立場で公然と女性の情念を歌い上げるなど、当時の王朝和歌の世界の自由さが偲ばれる歌でもある。久城寺天井画での素性法師の歌は「見わたせば柳桜をこきまぜてみやこぞ春の錦なりける」=「都をはるかに見渡せば、柳の翠と桜の白と交ぜ込んで、さながら春の錦であった。」が詠まれている。
秋田市建都400年記念「秋田市の文化財展」の会場で戴いた「佐竹本三十六歌仙絵巻」特別展示・ご来場の皆様へと題した実行委員長・小玉得太郎氏の挨拶状の中で、【三十六歌仙から見る建都400年、そして未来の秋田】の項目、「人物や文献、そして文化財等多くの価値あるものを表舞台に引っ張り出して、これを再検証し、「今に」再現することにより「遺産」から「資産」に、「資産」から「生産」に進化させて、これからの秋田を再生する英知を結集したいものと考えております。とあった。
関係各位の表面に出てこない数々のご苦労があって、この文化財展が開催されている。秋田市に住する私たちは、「佐竹本三十六歌仙」との馴染みをいただき、万葉歌人から千数百年、佐竹氏入部から四百年と、一人間の寿命を遙かに超えた時空を今行き来し、古代日本王朝文化の様相をここに再現、大いなる感動と喜びを得た。小玉氏のいう、遺産ー資産ー生産へと夢と希望を持して見つめ、みんなの力で前進していきたいと願っている。
布教伝道を旨とする私の勤めに、今財産を共有出来るWEBサイトに寺宝としての「三十六歌仙・天井画」を公開している。市民の皆様、県民の皆様どうぞお寺の天井を、そしてWEBサイトを鑑賞、共に熱っぽく語っていただきたい。
参考資料 古今和歌集(新潮日本古典集成) 秘宝 三十六歌仙の流転ー絵巻切断ー(NHK取材班)
WEBサイト(千人万首)
◆ 本稿は、約半分の文章に要約整理し、2004年11月22日付・秋田魁新聞夕刊「文化欄」に掲載されました。