今月の俳句
土屋 博
●平成21年〜24年 〜過去4ヶ年の掲載句〜
 上記 クリックすると過去4年間の作品を読むことが出来ます。

 この企画をはじめてから、4年目を迎えました。毎回、月半ば頃土屋様からメールで俳句とその句ができたコメントをいただき、私がアップロードの作業をしております。
 どうぞ俳句の好きな方々、遠慮なくご感想等、ホームページトップの下部「メール」からお寄せください。

「今月の俳句」当寺世話人、東京都在住・土屋博様の作品をご紹介します。




撮影  土屋 博 

〈12月〉

りんご剥く母ありし日を懐かしむ
俳句のコメント

 「りんご剥く母ありし日を懐かしむ」

 今から30年前、私が青森市内に勤務の時に「りんご農家」の方と知り合いになり、それ以来毎年収穫したばかりの新鮮なりんごを送ってもらっている。
 収穫を終えた冬期間はそれほどの農作業も無く、雪が降ると会社の敷地の雪掻きを手伝ってもらっていた。

 今年も「りんご」が届き、早速仏壇にお供えしてから「りんご」を剥いていると、突然、母のこと、また小学校時代のことを懐かしく思い出した。

 食べ物、着る物は乏しかったがそんな生活が当たり前と思って、弱音も吐かず暮らしていた時代であった。その中で、秋田も「りんご」を生産している農家があったので、りんごは比較的食べることができた。

 りんごを剥く母を我々6人の子供が炬燵に入って、母のりんごを待っている風景を思い出していた。

 戦後の苦しい時と較べて平和でモノノ豊富な今は、誠、幸せの一語につきる。しばらくは「りんご」を楽しむこととしたい。








〈11月〉

遺言の献体かなし菊の花
俳句のコメント

 「遺言の献体かなし菊の花」

 菊祭りのはなやかな季節。70才を過ぎて体が思うようにならなくなって来たと感じている。

 最近、友人との集まりには専門の話題のあとには、いつも病気・療養・お墓・散骨などが決まって話題になる。

 さて、身近に親しくお付き合いしている親戚のご主人が肺がんになった知らせを受けて大変驚いた。ご家族の懸命の治療にも関わらず、わずか3ヶ月でこの世を去ってしまった。ご家族の悲しみは如何ばかりと思い呆然としました。私と同年齢であったので、大変悲しく残念なことでした。

 ご本人は穏やかで読書とお酒が好きでした。お元気な時からご家族に「献体」の意思を話されていたようで、ご家族は遺言により、献体を覚悟して悲しみの中で大学病院にご遺体を託しました。

 ご主人のご遺体がお帰りになる日をじっと堪えておられ、3年目の今秋、ようやくお骨になってかえってきました。
 法要、納骨がしめやかに営まれ、ご家族は遺言を果たしてほっとすると共に、悲しみを新たにされたことと推察しています。

 私は家族に出来るだけ迷惑をかけないように、自らは努力し静かにこの世を去りたいと考えている今日この頃である。










(秋祭り寸景  撮影 土屋 博)

〈10月〉

入れ墨の消えて久しく秋祭り
俳句のコメント

 「入れ墨の消えて久しく秋祭り」

 9月初めには、八幡神社の祭りがあり、家の近くの畳屋に町内神輿が置かれて賑やかになる。神社は家から歩いて4,5分のところにあり、新年のお参り、七五三のお詣でもここでした。

 祭りの前夜の夜店は、子供たちの待ち遠しい時であった。
夜店は大変賑やかであるが、夜店への参加は少し前から商店やPTAなどのグループに限られるようになり、子供たちは安心して行けるようになった。昔の祭りの雰囲気とは違って、明るく、子供たちや家族連れの楽しい場所となっている。

 祭りの日は、七町会から神輿が出て町内巡りから始まり、神社境内へ神輿が集合して賑わいはクライマックスとなる。わが町内の神輿も参加しており神社の境内に行くのを楽しみにしている。







(芦ノ湖  土屋 博 撮影)

〈9月〉

孫あゆむ満月がゆく夏の湖(うみ)
俳句のコメント

 「孫あゆむ満月がゆく夏の湖」

 この夏に息子と4歳の孫と一緒に箱根に旅をした。芦ノ湖畔の近くのバンガローに泊まり外でバーベキューを楽しんだ。その後、手花火を楽しんでから船に乗って花火大会に臨み、天空の花火を満喫した。

 花火が終わって、人混みを離れてゆっくり宿の方に歩いていた。その日はちょうど満月であり、その月明かりを頼りに歩いていた。しばらくすると孫が「僕が歩くと満月もいっしょに動いている」、と声を出した。これは孫にとっての新しい発見であった。
 私も確かめ、相づちをしながら手を繋いでしばらく孫と一緒に歩いていた。

 その時は気が付かなかったが、翌日にこの句ができた。孫との旅の良い思い出ができたと思っている。

 船の上で花火の写真を撮ったが、満月の情景は撮影しなかったのは残念であった。箱根芦ノ湖遊覧船から花火を見て、以前行った華やかさと厳しさのある「大曲の花火」を懐かしく思い出していた。



(箱根芦ノ湖遊覧船からの花火  土屋 博 撮影)





(わさび田の風景  土屋 博 撮影)

〈8月〉

わさび田に北アルプスの風涼し
俳句のコメント

 「わさび田に北アルプスの風涼し」

 今年の夏、松本のとなりに位置する北アルプスが一望に見える安曇野に家族で旅をした。北アルプスから流れた清冽な伏流水が安曇野の緑の平野を満たしていた。

 旅の目的の一つに「わさび田」があった。大きな農場の入り口には蓼川があり、水面がきらきら輝き、涼やかな音をたてて流れていた。その川のほとりには水車がゆったり回っていた。

 わさび田は、人の手で一つ一つ丁寧に畦に植えられて、水の惠で育っていくと言う。水面にはふつふつと湧き上がる水の泡がみえていた。抜けるように広がる蒼い空のもとで、広大なわさび田を約一時間かけてまわった。わさび田には遮光ネットがかかっており、大きな田には橋が架けられていた。

 ゆっくりとわさび田を見ながら歩いていると、時々アルプスからの涼しい風が体に感じられて心地よかった。一休みして名物の「わさびアイスクリーム」を食べて、帰りに大きな生わさびを買った。



わさび農場のそばを流れる川と水車小屋 2012年 7月 土屋 博 撮影)






(秋田県山本郡三種町の田圃 2012.6.29撮影)

〈7月〉

北を往く植田を過ぎて青田へと
俳句のコメント

 「北を往く植田を過ぎて青田へと」

 就職して東京から秋田へ年に数回、ほぼ40年の間往復している。両親が他界してからは妹弟、小中高の友人と会うため、年1〜2回の秋田行きは続いている。

 東京を出発すると、いつも途中の景色を楽しみながらの旅になる。天気の良い日は栃木県に入ると那須岳を眺め、みちのくに入ると吾妻小富士、次に蔵王連峰となる。

 春は、田植えのあと苗は風に揺れて水面がキラキラ光り輝いている。暫く進むと田圃は一面に青くなっているのに気が付いて、不思議な気持ちになりこの句が出来た。

 これは、みちのくの冬の訪れが早く、稲の霜害を防ぐために早く田植えすることを知った。日本の四季がこのようなところにも、微妙にかかわっているのですね。

※ 農水省の統計資料により、田植えの時期は北が早く、南が遅いことを確認した。
  (一期作)



(東京駒場の植田 2012,6,17 土屋 博 撮影)
この田圃は明治政府が農業技術者を養成するために明治11年に設置した「駒場農学校」の実習地の跡です。
現在は筑波大学に継承されて付属中学校、高等学校の教育水田となっている。この写真は今年6月に生徒たちが田植えをした田圃の一部を撮ったものです。尚、秋には生徒たちによる稲刈り、収穫祭が行われます。







〈6月〉

菜の花やロマンスカーの持ち上がる
俳句のコメント

 「菜の花やロマンスカーの持ち上がる」

 最近は散歩が私の日課となっている。近くには前田藩の下屋敷であった広い公園があり、四季の花や紅葉など自然があり、楽しんでいる。

 今年の春は郊外の片倉城址公園で野草の会があり出かけてみた。例年より暖かくなるのが遅かったためか、丘の木陰にカタクリの花が群生していた。東京の都心に近いところでカタクリの花を見て嬉しくなり、以前秋田でカタクリの群生をみて感激したことを思い出していた。

 野草の会が終わってから、少し回り道して小田急線の沿線近くを通ったら、ちょうど線路の土手は菜の花が真っ盛りであった。暫く歩いていたら、特急列車(ロマンスカー)が通って行った。その時、土手の菜の花の上をロマンスカーが浮き上がって通過したように感じてこの句が出来た。

 後日、菜の花の土手を撮りに行こうとしたが、生憎風邪で寝込んでしまい、時期を失ってしまった。そこで、近くの菜の花のある土手に行ってみたところ、すでに盛りは過ぎていたが写真に収めた。











唐代の玉門関遺跡にて 筆者

〈5月〉

黄砂浴ぶ玉門関に杯交わす
俳句のコメント

 「黄砂浴ぶ玉門関に杯交わす」

 この句は友人と中国敦煌に行った時の句である。

古代シルクロードの中国側の起点として名高い敦煌の西100qの所に玉門関があった。玉門関はタクラマカン砂漠を抜けて西域・天山南路へ通ずる重要な関門であると同時に、異民族の侵略から領土を守る重要な軍事拠点でもあった。

 そこには、玉門関址が唯一残っており、他は何一つなく荒涼としており、辺り一面に土埃の舞う砂漠が広がっていた。西方5qには万里の長城の後に漢代に築城された長城跡が風化し僅かに残っていた。

 昔は遠く西域へ行く人の安全と無事帰還を祈って杯を交わし、見送る最後の地点であり、唐代の詩人・李白や王之渙はこの地を題材に多くの詩を詠んでいる。我々は友人と共に暫くこの地で観察してしばし往時を懐かしんだ。

 また敦煌の見所に「莫高窟」(ばっこうくつ)がある。1600メートルの岩壁に石窟が490掘られ、約千年にわたり多くの壁画と2400体の彩色塑像が残されていた。
 その中で、名のある50程の窟に入り、彩色の美しい菩薩像や壁画を堪能して中国の歴史の長さを実感した。中には奈良の仏像を彷彿させる壁画があり、驚いた。また、玄奘三蔵が経典を求め、西暦629年にはこの「玉門関」を通り、砂嵐の吹き付けるタクラマカン砂漠を歩き、天山山脈を越えてインドに向かっている。



漢代の長城跡(壁は芦と土をつき固めたもの)



(莫高窟の風景)

参考資料(住職 撮影)



インド アジャンタ遺跡 第1窟 蓮華手菩薩(壁画)
紀元前1世紀〜7世紀まで造営が続いた。法隆寺金堂に描かれている勢至菩薩像等と比較され、
そのルーツといわれる。






〈4月〉

桜散る名画座のある裏通り
俳句のコメント

 「桜散る名画座のある裏通り」

 この句は、大学一年生の頃を思い出して詠んだ句である。

 仙台の繁華街の裏に人通りも少なく静かな通りがあった。入学した頃は桜の散る頃で、この裏通りには思い出の多い「東北劇場」があった。
 ここでは、以前評判になった映画を2本立てで上映していた。中学、高校時代に見逃していた名画が続々とかかっており、2本立て学割30円であったことを覚えている。

 今でも思い出すのは、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」、「巴里のアメリカ人」などのミュージカル映画が日替わりで一週間続く時があり、授業をやりくりして日参したことである。当時の封切館ではグレースケリーの「喝采」、ジェームスディーンの「エデンの東」が評判となっており、両方とも見逃さずに熱い心で鑑賞した。

 私は理科系の学部であり、授業・実習ともにおろそかにできなかったが、映画、その他の趣味もそれなりにして有意義な時期であったと思っている。
 この写真は、その後もう一度鑑賞したくなって購入したDVDビデオのカバーである。

 昨年の大震災の直後に詠んだ句があります。

 
「みちのくの 春はくるたび 花は咲く」

 震災から一年経って再び花の季節ですが、復興は遅々として進みません。大変気掛かりです。







呼白の春(1994年) 第20回 春季創画展  信太 金昌

〈3月〉

春を待つ児の新しき三輪車
俳句のコメント

 「春を待つ児の新しき三輪車」

 小さな子供さんの興味の一つに「乗り物」がある。その中で、身近なものに「自転車」があり、次に「電車」や「飛行機」もある。
 しばらくすると、ミニカーなどの玩具を手で動かしたりして遊ぶようになり、そのうち自分でも乗って動かしてみたくなる。手頃なものとして「三輪車」があげられる。

 クリスマス・プレゼントに孫に好きな三輪車を選んでもらった。三輪車が手元に届いたときの喜びは大きく、暖かくなって存分に遊べる日が待ち遠しい様子であった。俳句は孫のこの時の様子を見て詠んだ。

 このように、子供は一つ一つ段階を踏んで成長してゆくのでしょうか。私は歳をとってますます子供が好きになった。純粋無垢で快活な子供たちと一緒にいるだけで、時の経つのも忘れてしまうことが度々である。








在りし日の父・母

〈2月〉

新酒酌む父のモノクロ写真帳
俳句のコメント

 「新酒酌む父のモノクロ写真帳」

 冬は熱燗のお酒が美味しい季節です。新酒を飲むと晩酌が好きだった父の姿を思い出す。戦中戦後の大変な時に、八人家族を養うため苦労の連続だった父は、定年退職して3年目の60歳を目前にして病で亡くなった。

 私が就職してからは、休日を利用し、旅行を兼ねて私を訪ねて来たことが数回あった。その時は私が名所旧跡を案内するのが常で、少しは親孝行が出来たと思っている。

 父は温和で仕事熱心であり、家族思い出あった。もう少し長生きして我々子供たちの成長を見守りながら、もっと好きなお酒を楽しんで欲しかった。

 昭和30年代は、白黒の写真が一般的な時代で、私のカメラで撮った父の写真はすべて白黒である。母は比較的長生きであったため、カラー写真も沢山あるが、父のカラー写真は私の結納の時に撮った写真だけである。

 ※ 今月の俳句には大変嬉しいことがありました。私の参加している俳句会「野の会」の俳句雑誌1月号の巻頭「今月の一句」に私の句が初めて載ったことです。



在りし日の父 日比谷公園から電電公社本社ビルをバックに(昭和36年)


俳句雑誌「野の会」1月号〜巻頭〜









正月の男鹿半島から日本海を望む

〈1月〉

鴨鍋や胡座同士の無礼講
俳句のコメント

 「鴨鍋や胡座同士の無礼講」

 学校を卒業してすぐ東京に就職した。50歳までは東京勤務が長かったが、その間、四国・北陸・東北(仙台、青森)勤務があり、40歳後半から住まいは東京に落ち着いた。

 高校同期の皆さんの中には、東京や首都圏に仕事や住まいを持っている方が多くおり、親しい仲間同士の付き合いは続いていた。50歳を過ぎる頃になると、昔一緒に学んだ仲間と飲んだり、語り合いたい気持ちが何とはなしに高まってくる。

 我々同期の仲間も幹事の呼びかけで、首都圏同期会の名簿が出来、50歳半ば頃から総会を開くようになり、平成19年まで毎年会は続いた。その後もゴルフ会、囲碁の会、旅行会などは有志によって今も続いている。

 この句は、昨年の有志による新年会の楽しい席を詠んだ句である。総会は現在残念ながら中止になっているが、忘年会や新年会の要望が多くあり、幹事の努力で毎年続けられており大変楽しい会となっている。




新年会場 楽しい仲間(ぼかしてます)






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