身延山第29世隆源院日莚上人と莚師法縁隆源会

〜 「法縁の理念と歴史と展望」〜日蓮宗莚師法縁隆源会


【史 実】
日莚上人のみ弟子の一人、日晴は、藩主佐竹義処から、日莚上人の御霊屋の守護職として久城寺の後任(久城寺第十一世)を申し渡された。
 元禄十四年(1701)の冬、久城寺の寺席を日達に譲って退隠し、同十六年三月、江戸に登っている。江戸に居ること二十年、七十一歳のとき、師の日莚の廟所で臨終したいと念願し、享保七年(1722)七月に久保田に帰った。そして、八橋の不動庵(久城寺の閑居所)に隠居した。
 師は和歌をよくし、一首を残している。
           『古里へ 帰らでここに 我れ死なん むかし聖の かくありしゆえ』  日晴

 平成23年10月27日・縁祖日莚上人参百参拾遠忌報恩法要を全国莚師法縁隆源会会長 本山本満寺貫首 伊丹日章猊下を御導師に、大本山本圀寺貫首名代 川口智康僧正を脇導師に、門跡瑞龍寺 鷲津日英貫首、昌柏寺 伊藤瑞叡先生、隆源会会員各聖ご出座のもと秋田団参、報恩法要が当久城寺にて厳修されました。

 また、300余年の風雪を経た八橋の莚師廟墓をお参り頂き、縁祖終焉の地を預かる小衲にとって感激この上なき法悦に身震いした次第です。

秋田市八橋 久城寺墓地 〜日莚上人 旧廟墓〜



きたのちの やばせがむらに だびせらる まなびひじりの おくづき かなし (瑞叡)



平成31年1月より、身延山久遠寺では、朝勤時に、僧俗共に宗祖日蓮大聖人のみ心を体するべく
身延山二十九世・隆源院日莚上人が寛文八年に編纂された「身延山御書類聚」の拝読が始まったと聞きました。

国立図書館デジタルコレクションには、「身延山御書類聚」著作・久遠寺編 出版者・久遠寺 
出版年月日 明治45年4月3日発行とWEBに公開されている。

その後、此の本は、大正6年〜昭和35年 昭和40年4月発行 昭和63年7月改版、平成16年3月改版、
平成21年5月改版と増刷発行、改版を重ねて今日に至っている。

よって本ファイルは平成21年の身延山久遠寺・発行の最新改訂版から、
私たちが親しみを持って読めるようテキストファイルに出力、編集してみました
PDFファイルです。是非、ダウンロードして毎日の読経のおともに、声を出してお読み下さい。




◆ ◆ ◆身延山御書類聚◆ ◆ ◆ 

〜寛文八年(1668年)身延山二十九世 隆源院日莚上人の類聚〜

 平成21年5月17日 身延山 久遠寺 発行 最新改訂版より

第一篇 日蓮大聖人、身延山御入山のこと
主 題 御  書 御書系年 世寿 定遺 文例
佐渡ご赦免 四条金吾殿御返事 弘安3,10,8 59 1800 短文
御入山聖意 下山御消息 建治3,6 56 1334 34ページ
御入山道中 富木殿御書 文永11,5,17 53 809 短文
故郷遙望 光日房御書 建治2,3 55 1155 10ページ
身延山景観 種々御振舞御書 建治元年 54 986 15ページ
御両親慕情 その一 新尼御振舞御書 文永12,2,16 54 864 6ページ
御両親慕情 その二 新尼御前御返事 文永12,2,16 54 864 6ページ


第二篇 山中御生活のこと
主 題 御  書 御書系年 世寿 定遺 文例
聖山心境 その一 身延山御書 弘安5,8,21 61 1915 9ページ
聖山心境 その二 身延山御書 弘安5,8,21 61 1923 9ページ
10 読経三昧 松野殿女房御返事 弘安2,6,20 58 1651 2ページ
11 人戀 その一 妙法比丘尼御返事 弘安元年9,6 57 1563 20ページ
12 人戀 その二 妙法比丘尼御返事 弘安元年9,6 57 1564 20ページ
13 草庵と行学 庵室修復書 建治3,冬 56 1410 短文
14 三国の霊山 秋元御書 弘安3,正月、2 59 1739 11ページ
15 霊活自在境 秋元御書 弘安3,正月、2 59 1739 11ページ


第三篇 大聖、晩年の光輪(法力・信力・行力のえがく世界) その一
主  題 御  書 御書系年 世寿 定遺 文例
16 病と煩 兵衛志殿御返事 弘安元年11,2 57 1606 短文
17 大坊新建 地引御書 弘安4,11,25 60 1894 短文
18 霊山の契り 波木井殿御書 弘安5,10,7 61 1931 7ページ
19 経 力 西山殿後家尼御前御返事 弘安4年 60 1902 短文
20 読経談義百余人 曽谷殿御返事 弘安2,8.17 58 1664 11ページ
21 当山は功徳聚 四条金吾殿御返事 弘安3,10,8 59 1800 短文


第四篇 大聖、晩年の光輪(法力・信力・行力のえがく世界) その二
主  題 御  書 御書系年 世寿 定遺 文例
22 阿仏房三詣 千日尼御前御返事 弘安元年7,28 57 1545 10ページ
23 至孝の納骨 千日尼御返事 弘安3,7,2 59 1765 7ページ
24 孤島の塔婆 中興入道御消息 弘安2,11,30 58 1718 7ページ
25 四処道場 南條兵衛七郎殿御返事 弘安4,9,11 60 1884 短文
26 御廟遺状 波木井殿御報 弘安5,9,19 61 1924 短文
27 墓所建立の聖意 波木井殿御書 弘安5,10,7 61 1931 9ページ
28 親子成仏 その一 忘持経事 建治2,3月 55 1150 短文
29 親子成仏 その二 忘持経事 建治2,3月 55 1150 短文
30 能忍の土 上野殿御返事 弘安2,12,27 58 1721 短文
31 霊山往詣 波木井殿御書 弘安5,10,7 61 1932 9ページ




平成31年(2019)2月9日 撮影 (小倉 孝昭)





〜平成27年5月27日〜
縁祖 隆源院日莚上人廟墓改建 入魂開眼、改葬納骨法要厳修
秋田市八橋 不動庵跡 久城寺墓地
  

 
全国莚師法縁隆源会・大徳(徳の高い清僧)諸上人の浄財のもと、立派に改建された莚師御廟



スマホで見られる「YouTube]投稿動画へリンク
     平成27年5月27日 厳修

 縁祖 隆源院日莚上人新御廟開眼納骨法要

 大導師 隆源会会長 本山本満寺貫首
                伊丹 日章 猊下

 映像  1時間3分36秒
 収録  大島 智靖 師
     平成27年5月27日 厳修

 縁祖 旧塔廟移遷 奉安 報恩法要

        秋田市 顕乗山 久城寺 本堂

 映像  48分48秒
 収録  大島 智靖 師
 縁祖隆源院日莚上人 
     新御廟開眼納骨・旧塔廟移遷奉安報恩法要 


        〜隆源会本部作成〜




 上記映像を合わせ 1時間5分59秒に再編集:大島 智靖 師



 知恩報恩の妙行としての縁祖塔廟の改修建立! 

 吾莚師法縁は、正東檀林の学系法脈にある延山久遠寺廿九世隆源院春山日莚上人を縁祖とし、光山本圀寺廿祖隆源院春山日隆上人を結集の長者(=上座)とします。
 隆師は師の莚上より字の春山と院号の隆源とを賜り、光山に晋薫して日隆と法号し、師の諸弟子を会集して、本法縁を定礎されました。莚師に法功あり隆師に法労ありしなり。
 莚師は著作を数卷遺されましたが、資の隆師は祖述を専らとされました。
しかも、隆師は西山隠士光圀卿と連枝の親交あり、始めて大僧正に任官される等、延山光山、もって資として師の莚上の栄誉を輝かしめました。
 両上師資の親縁関係に、高祖大士に対する日朗菩薩の師孝給仕第一の人倫の至極と、師恩に報酬する報恩精神のエトス(行動の様式)
が看取されます。私どもの感動する所です。
 莚師は悲しくも配所秋田の地に、延宝九年正月廿七日、微恙を感じ忽として帰寂、寿七十三でした。
光山隆師、時の猶予を請い有縁の衆に参拝せしめ八橋不動山に荼毘されました。弟子の春道日晴、久城寺の住職として葬儀を執行し、爾来弔祭怠ることなく今日に及びます。
 先般、吾法縁は縁祖三百三十遠忌に及び、法縁諸上一同して、風雪に耐え崩壊を俟つ縁祖莚師の廟墓の改修を発意いたしました。
そして法縁諸寺院諸上はこれに賛同、心よりなる財施を寄せられました。
 もって、端麗にして荘厳せる新塔廟が建立されました。妙とは蘇生の義なり、生きかえる義にて候、との御聖訓が想起されます。
かくして、吾法縁諸上は一同して縁祖莚師に報恩の至誠を尽す事が出来ました。
しかも、私どもは改修を機縁として、高祖大士に対する日朗菩薩の師孝第一の法華妙道が、莚師に対する隆師の子弟行道に示現されている、と識知するを得ました。共に、師孝の正道を吾等が自行化他として昭彰し修習し感得することが出来たのです。
 要するに、私どもは、皆で、本門の題目の知恩報恩の妙行を人倫の正道としてこれを実修し、至幸なり正道の侶となり得ました。
 まこと、御同慶の至りであります。   合掌

                        身土不二の極理 常住一体の三宝 南無妙法蓮華経

     
      〇 あらたなる おくづきのかげ さりぬべし つどいしおもひ きよくすみけり
      〇 みなにして たしかめあふは ありがたし けふのひうれし こうのみちゆき
      〇 いつのひか いのちありせば もうでたし ボサツのみちの かほりかぐはし

全国莚師法縁隆源会 総裁 大本山本圀寺貫首 伊藤瑞叡日慈


 ご挨拶

 縁祖隆源院日莚上人廟墓は、仏祖三宝諸天善神ご加護の下、法縁各御寺院の皆様の絶大なるご支援により、目出度く落成入魂の式典を迎えることと相成りました。これに鑑み法縁各聖と共に八橋の墓所に於いて、新廟墓入魂開眼法要を円成出来ますことは、皆様と共に喜びに堪えません。
 言うまでもなく、縁祖日莚上人は、飯高・中村両檀林の化主として門下門弟育成に粉骨砕身されました。この多くの門弟排出という事こそが今日の法縁の起こりそのものであります。しかし、現代の様相如何と問うて見ますれば、超高齢化社会という人口
減少社会が懸念されている状況であります。この事は、一般社会のみならず多方の様々な社会に於いても例外ではなく、我が宗門にとっても憂慮すべき問題になっていることは皆様も同意のことと拝察します。
 一人の師より一人の弟子ではその数は発展を見ません。我が法縁にては、縁祖が多くの弟子門弟を育てられたように二陣三陣続き有能なる門弟育成に力を注ぐ事が縁祖に対しての御報恩になるのではないかと思うのであります。
 日蓮大聖人は生死一大事血脈抄に「相構え相構えて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え。生死一大事の血脈これより外に全く求むる事なかれ。煩悩即菩提、生死即涅槃とはこれなり。信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり。」と仰せられています。弟子育成に於いて、我々が強情なる大信力を致して信心の血脈としての門弟育成こそが未来においての法縁、宗門の発展につながるものと信じてやみません。
         平成二十七年 五月 二十七日
全国莚師法縁隆源会会長 京キ本山本満寺 貫首  伊丹 日章


〜縁祖隆源院日莚上人の300余年、風雪に耐えた旧塔廟は補修の上、久城寺の本堂内に移遷奉安された〜





平成25年(2013)5月12日 隆源会総裁の伊藤瑞叡先生は、日蓮宗大本山・京都 本圀寺の第百四世の法灯を継承されました。
晋山式の奉告文を別画面にて読むことが出来ます


晋山奉告文一章(伊藤瑞叡日慈猊下)




 隆源会幹事長 児玉宜海師は本書に要序として次のように寄せております。

 『私共は師資相承の法脈をもって一つのサンガ(僧伽)を形成し、その集団として、高祖大聖人より七百有余年、縁祖聖人より三百余年の歴史を保持して来たが、ともすれば、今風の流れの中に埋没して、先師の苦労や、集団の歴史と成り立ちを忘れてしまっているのではないか・・・・・。今、世情混乱のこの時こそ、その歴史と形成の基本を再考しなければ、未来への展望が見えてこないのでは、と強く感じる。時恰も縁祖隆源院日莚聖人第参百参拾遠忌にるこの時、再び各人それぞれが本書によって、法縁の理念と歴史を振り返り、未来に対する確固とした展望を持ちたいもの、と考えるものである。そして、会員各聖が深い絆を共有し法縁の発展に寄与せられん事を、切に願うものであります。』 



● 〜莚師法縁隆源会復古改新のための〜「法縁の理念と歴史と展望」 PDFファイルへリンク
秋田市八橋 久城寺墓地 〜日莚上人 新廟墓〜


法縁の理念と歴史と展望
〜莚師法縁隆源会復古改新のための〜

伊藤 瑞叡・著

 目  次
1.祖山中心合末体制の難行頓挫 9.高祖一期の祈請所願
2.本末解体の経緯と結果 10.公場対論と殿中問答
3.本末ゆかりの法縁の蘇生 11.大光普照本国土妙寺
4.求められる本末と法縁との理念 12.六老僧及び門徒、その分張
5.法縁の起源は檀林の学系にあるも 13.本圀寺学道講に至る歴史的系年譜
6.檀林の学系は高祖の学道に始源す、とすべし 14.正嫡付法の鳳詔綸旨
7.高祖の略伝に学道の正気を習う 15.縁祖は隆源院日莚上人なり
8.高祖大士の求法講経 16.法縁結集の師は本圀寺日隆上人なり
〜一往の跋〜いちおうのおくがき


 〜緒〜いとぐち

 わが日蓮法華宗(これは日蓮宗の具名なり)は、宗教法人法という世俗法による宗門という上位組織に包含される形式で、下位の諸組織が各々ヒエラルキー擬(まがい)の秩序をなして、多角的かつ重層的に構成されている。
 しかしながら、実には師資相承ないし法脈縁故による法縁という貫史の出世間法が法と人との命脈を保持している。
 わが宗門の衰退は、宗門を構成する法脈学系・師資相承としての法縁・法類の、その仏教本来の意義に対する宗門個々人の無自覚と不勉強、しばし適正を欠く運営、閉鎖的な独占、権力的な悪用と、それによる結集組織の退化ないしダイナミズム衰弱の結果でもある。

 しかしながら、わが莚師法縁隆源会は、兄弟法縁の奠師法縁と共に、懐しい伝統を紹継し親わしい縁故を重ねて、師資相承の意義を確認しながら、自ら法に依り法に依る師と善友・善知識との共なう、品位ある和合僧(サンガ)として、静かに力強く機能している、と思う。役員・会員の誓願と精進の賜物である。

 およそ法縁とは、宗門においては、法縁祖(縁組とも法類祖ともいう)の法脈学系を伝承し法水を同じくする流類であり、精貞法縁(現在の親師法縁)を除いては、殆ど大約して延山第二十二世・池上歴世の心性院日遠上人を遠源とする。

 すなわちわが莚師法縁は、日遠ー紀州養珠寺二世中正院日護―日莚と次第して、身延二十九世・京都妙顕寺・玉沢妙法華寺歴世隆源院日莚上人を縁祖とし、遠師を遠源とするのである。

 ところで遠師は、六才にして京都は大本山本圀寺に投じて求法講院の鼻祖たる一如院日重上人に師事する。
 重師は、元より大本山本圀寺南泉坊に投じて出家し、学なりて本山本満寺に住し、諸檀(剪k)林の遠源となる本圀寺学道求法講院の鼻祖として三大部を講じ、直弟として寂照院日乾、心性院日遠の両上を指南し育成する。

 重師は、慶長七(一六○二)年、身延山主に請ぜられるも、乾師をして代りに晋山せしめた。乾師は功を師に帰して重師を延山歴代に加えたという。乾師のあと、同じく重師の資、遠師が延山を後継する。
 すなわち宗門中興の三師は、共に本圀寺学道求法講院(=求法檀林)の出身であることを知るのである。

 莚師法縁隆源会が重師の住持した本山本満寺を縁頭寺とし、重・乾・遠の三師の行学出自の求法講院設営の大本山本圀寺を心縁中枢の出世寺として現今に及ぶのは、宗門の歴史伝統にも適合し、法の因縁の然らしむるところと云えよう。
その正統性(オーソドキシー)を大切にしなければならない、と思う。

 縁頭寺の本山本満寺は、具名を広宣流布山本願満足寺と称し、開山の日秀僧都は近衛忠嗣の祖父道嗣の子で、本圀寺日傅上人の弟子となり、日秀と名づけて十六才にして寺主となったとも、忠嗣の子房嗣、子の政家及び子の尚道は本満寺に代々法事等を営み、しばしば本寺の本圀寺に参詣して法華八講を聴聞したとも、伝承されている。

 ところで民族は、その歴史と言語と文化を失うと、民族としての自由と独立を失い、他民族に支配されて、奴隷となり家畜となりはてる、と云われる。法縁もそうである。
 目下、法縁は懐しの們の道に寄せる心情、心を同じくしようとする責任、共に法を持とうとする師資(の人倫)などという古くて新しい縁故関係によって、何とか維持されている。
 しかし過去における本末解体の今日的な結果として、法縁組織には解消か復古か維新か充実かなど、問われるべきことのみが実には多いのである。
 よって、いずれにもせよ、法縁の復古維新ないしは充実発展を促進せしめるために、宗門個々人の自覚を深め認識を新たにするためにも、そして当為(ゾルレン)としての法縁の精神(アイデンティティー=自己存在証明)と行動の様式(エトス)を展望するためにも、以下に法縁の歴史と多少の関連事項について記述したい、と思う。

一、祖山中心合末体制の難行頓挫

 明治初年に、わが宗門各派にも管長制が敷かれることとなった。本宗には当時の状況下で四十四管長(総大五山三十九本山)が誕生するかに思えた。しかし幸いなことに単称日蓮宗の下に旧一致(すなわち教相勝劣・教旨一致を主張する)各派は一管長の下に統合することを得た。よって宗門の力の分散を防ぎ得たのである。今日の宗門ある所以である。
 それは、薩・鑑・修の三師を首とする諸先師の努力による一大事業であった。
 その所以は、遠く本圀寺求法講院より起てる重・乾・遠の宗門中興の三師の時代からの積み重ねによるものであった、とも云えよう。
 更に大正期に入って、日蓮門下の統合運動が起り、それを引き継ぐ形で昭和十三年に祖廟中心制度(合末体制)を実現し、合末体制の具体化を求めて昭和十五年には本末解体を断行して三派合同を成就した。
 しかし敗戦後、再分裂あり離脱あり顕本法華宗などの独立ありで、また単立寺院も出来した。如何ともし難いことであった。しかして、現今では、元法縁の単立諸寺院を糾合するべきであろう。
 かくして、歴代内局の努力も虚しく、今日至るも、祖山中心合末体制は速進もなければ、勿論、実現もしていない。祖山解放条件の能不、諸寺合末形式の可否という難題を克服できなかったからである。

 それは時流に阿(おもね)る宗門人の不覚と保身に勤しむ当局の怠惰とによるばかりではない。すなわち、伝統ある各本山と旧来する各法類との親縁の強くあるがためでもある。
 本末が解体されたにもかかわらず、現今の如く形式的な祖山中心体制に終始して解放合末のならない現状は、むしろ、それが合理であって、本末解体それ自体が無謀にして不合理なものであったことを証明するかのようである。

 二、本末解体の経緯と結果

 よって、もう一度、本末解体の経緯と結果を見よう。思うに、それは、戦時中三派合同の際、蓮門大同団結の大義を掲げ、本末を派閥の偏執と闘諍の門基となるとして一挙に解体し、全寺院を総本山身延に糾合せしめんとする意図からして、決行された如くである。
 身延を中心として中央集権を獲得し改革し統制しようとした当時の宗政家管長望月日謙上人の画策であった、とも云う。
 しかし本末解体はなしたものの、その功半にして望月管長は遷化し、ついで敗戦による民主放任主義の時流と宗教法人法と農地解放により旧体制は崩壊し、本寺も末寺も同じ法人として同権を主張しうるに至った。
 すなわち京都本圀寺を始め、今日、各本山が衰微廃退した等流因は本末解体にある。得度式は清澄で、住職就任辞令は延山でなどと、形式的な仕草を奉行してみたところで、昔の本末縁故の情誼は戻ってこず、臍を噛んで悔いても帰らぬ大失策であった、と当時を知る今は亡き古老は嗟いたものである。
 往昔の本末縁故は、実によく永い間の慣習が微調整の積み重ねにより自然に無理のない組織を生成し、一歩も乱れさせず、集団としての結成が心よく完璧を成し、宗勢の盛り上がりに役立っていた、とも云う。
 総大五山を首とする、あわせて四十四ケ本山が各自に末寺を統合して、ゆるきない宗団を形成して、分散しながら情報を交換し相互に自立して競合していた。適度にエネルギーを貯蔵し応分にダイナミズムを発揮しえていたのである、と思う。
 改革は先師の微調整による積分的経験に学ぶべきではなかったのか。
 本末が解体されるや数年を経ずして、多数の本山は完全に宙に浮いて形骸化してしまった。ことに京都八山の衰微は往時の栄華を偲べば、まことに痛ましく、宗門の衰退を意味する如くである。相互協肋の美風も失われたのである。
 本末・法縁という多数の下位サイクルが互にカップリング(動力伝達笠置と)して合理に機能するところに、上位システムとしての宗門機構が存在したことを無視し否定した結果であろう。

 三、本末ゆかりの法縁の蘇生

 かくして、こうなっては頼るべき力になるものは、本末と由縁のある法縁しかないという掛け声と共に、各法縁は結束を強固にし、いわば主師親三徳の資性を法縁に求め、その蘇生を期しはじめたのである。
 法縁の数は大小あわせ詳紬に観察すると優に二百を越える数がある、と云われる。
 しかし法縁が如何に強固なればとて、権力集中の悪用欲求者も見え隠れして、そこには昔日の本山と末寺との親子関係にも似た情誼は出てこない、とも古老は云う。
 本末は実に懐かしいものであるに違いない。宗門人の第一に行わねばならない責務は、親縁の旧本山を一つ一つ共同して復興してゆくことではないのか。
 身延一山の下に全寺院を末寺として総轄して統治しようと、合末の大欲をかいて各本山の祖伝と歴史の正統と先師の威風を無視した所に、宗門は大きな誤りを犯したのである。それを承認した当時の四十四ケ本山の貫首にも罪科なしとは云えない。
 私どもには、旧本山の現貫首方の護山丹精の労苦難儀が、まのあたりに諒察される。なせるところより、どうにかなさなければならないのである。
 現代の分子遺伝学の分析によると、社会の人エシステムは非民主的な階層組織を保持して機能し、その安定は制御装置や緩衝組織によって維持される閉鎖的で静的な平衡状態をもってする機械的安定てあり、生物の生命システムは多数のサイクルの相互依存を更新しつつ機能し、その安定は部分相互の情報交換と分散協調の制御装置によって維持される開放的で動的な平衡状態をもってする有機的安定である、と云う。
 宗門が目的として達威しえなかった祖山中心合末体制は、社会の人エシステムにも似ていて不自然なものであったのではないか。
 そして、解体されても何とか持続しえて蘇生しつつある各本山本末法縁組織は、生物の生命システムにも等しい自然生(スバヤンブフー)の伝統に底礎されたものである故ではないのか。

 四、求められる本末と法縁との理念

 よって、現今、求められている理念は、法的制度、権力関係としての本末ではなく、父子の義儀、情誼、相依性・因果律としての本末であろう。
 そして、制度、組織力としての法縁ではなく、睦親、和合僧としての法縁であろう。
 かくして、しかし本山と本末に由縁のある法縁ないし各寺各師とは、上やわらぎ下むつぶ、異体なれども同心なる和合のつどい(サンガ=僧伽)でなければならないであろう。
 縁祖聖人に会通して元祖大聖人に直参する善友のつどいでなければならないてあろう。
 信によって行学の二道に勤しみ妙法の血脈を相承する法眷のつどいてなければならないであろう。
 共に菩薩となり仏に成るために共に生きるという共成(=皆倶成仏道)のための共生のつどいてなければならないてあろう。そして水の如き信心によって、実智に住して大海の如く洋々として而もハ風に動ぜざること須弥山の如くなる安心を決定せしめうる善知識の協肋のつどいでなければならないであろう、と思う。
 以下、更に歴史と諸事項について、私見を加えながら叙述してゆこう。

 五、法縁の起源は檀林の学系にあるも

 さて一般に、法縁とは法類とも法眷ともいう。各檀林(=僧侶を教育する江戸時代における学校)の発達により宗門の教育に殊勲ある師表を中心として、その学系に属し法脈を伝承する者により、あるいは特定の檀林の出身者ないし末弟により、なれるところの本宗僧侶の団体をいう。法眷とは妙法を紹継する眷属(バリバーラ)の意味である。
 本宗檀林の中で最古のものは京都松ケ崎檀林にして天正二(一五七四)年の創立であるという。飯高・小西・西谷・中村・山科が、これに続く。就中、飯高・中村が最も隆盛を極め、寛永・寛文の年間に飯高に中台・城下・松和田の三谷が生まれ、中村に東(指南)・西(指南)の両谷が起る。指v南(華厳経入法界品による)とは教え導くことを意味する。
 谷(さく)とは、元は檀林の所在地に近接せる小字を呼ぶ地名であるが、その一地画に学徒を収容するために数棟の学寮を建設して指南し互いに秀越を競うに至り、遂には一学寮、あるいは数棟の学寮よりなれる学閥を意味する語となる。
 かくしてそれら学寮の僧団は、漸次に各々の学師を仰載し学系として分立し、やがて一部本寺の住職権の相続にまで支配を及ぼすにいたる。
 それが法縁の起源でもある。現在の法縁の一部はこれらの法脈を伝承してもいる。
 しかも、わが莚師法縁隆源会は、中村檀林は西谷(=西法眷)に属する。中村檀林の東西両谷の組織を簡明に示すと、一往、鈴木一成博士著『法類』(大正十六、奠師法縁を焦点として、奠統会発行)に左の如く(次頁参照)である。

 東谷(東法眷)

   修光院日精上人  元文四年十二月十六日寂(    )本山頂妙寺二十一世 大本山法華経寺五十八世 
   本是院日貞上人  明和元年十月十四日寂 (    )本山本法寺三十二世 大本山法華経寺 七十世
   了義院日達上人  延享四年二月二十六日寂(壽七十一)大本山本圀寺二十六世
   通心院日境上人  萬治二年十月二十八日寂(壽五十八)総本山久遠寺二十七世


  ◎中村檀林 開祖 慧雲院目圓上人 慶長十年六月四日寂(壽三十九)檀林ハ千葉県香取郡中村本山正東山日本寺ニアリシナリ

 西谷(西法眷)
   
   ◎奠師法縁開祖 妙心院日奠上人 寛文七年十月三日寂(壽六十七)本山妙成寺中興 身延山二十八世

   ◎法眷開祖   顯是院日要上人 元和元年七月五日寂(壽四十八)身延山二十四世
   
   ◎日奠上人之御法弟
     莚師法縁開祖 隆源院日莚上人 延寶九年正月二十七日寂(壽七十三)身延山二十九世 大本山妙顕寺歴世 玉澤妙法華寺歴世

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  因ミニ記ス。明治以来奠師法縁ニシテ管長トナリシモノ釋目禎・三村日修・旭日苗ノ三上、又身延山へ瑞世セシモノ三村日修・中田日阜ノ二上、大本山本圀寺寺ヘ瑞世セシモノ釋目禎・三村日修・旭日苗ノ三上アリ。
中村檀林ノ外二飯高檀林、小西檀林、水戸檀林、身延西谷、池上南谷アリ。又京都二山科、本圀寺求法庠(=求法講院)、鶏冠井、松ケ崎、東山庠、鷹峰ノ六檀林アリテ、各法類ヲ異ニスト雖モ、飯高・中村ノ両檀林ヲ以テ最高学府トシ學徒モ多キ第一位ヲ占ム。
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 六、檀林の学系は高祖の学道に始源す、とすべし

 ところで、しかし莚師法縁は、重師の住持した本山本満寺を縁頭寺とし、重・乾・遠の三師が講主となれる求法講院を設営したところの大本山本圀寺を出世寺として現今に及ぶ。その求法講院は本圀寺学道に始まる。
 本圀寺学道の始まりは、『本圀寺年譜』によると、「応永万二十二(一四一五)年四月五目、本圀寺において、伝師の弟子第ハ祖大周院日聰師、本圀寺学道の魁として法門貫首となり、翌年正月より学道講を始め、のち二十日講と呼ぶ」とある。松ケ崎檀林に先立つこと、一五九年である。
 また、「文安二(一四四五)年、弟子の日暁上人、学道職三人、評定職三人の制を始む。。また延徳元(一四八九)年、三問一講を修し学道荘厳講に常住本尊を与える。明応九(一五○○)年、荘厳講は先代の如し、三問一講、月例となる」とある。本圀寺常住本尊とは如何、これを知るべし。
 かくして究竟院日ワ辮l、天正十一年、学道を再設し、天正十九(一五九一)年、本圀寺学道を改新し一如院日重上人を招聘して求法講院を設立し、後に求法院檀林と称する。
 学系としての法縁とは、したがって理念としては学道に始源する。それは深信観成の行道を伴う法華玄義の学道であり、祖書要義の学道でなければならない。それは高祖大士の松葉谷御小庵の学道を遠源とする、と領受されるべきである。
 よって、私どもは、もう一度、高祖一期の化導の始終に行学二道の精神(=信行の相貌)を推求して領得しなければならないであろう。求法講院の再興を要する所以である。
 すなわち檀林の学系が法脈として実体的に失われてしまった如くある現在、私どもは高祖大聖人の法華教学の学道の元意の趣旨に還帰し、もって実質的に法脈として、大聖人に始源する学系を蘇生せしめなければならないであろう。
 さもなければ一時の思潮に媚びる、実のない権として、先師の遺産に寄食するのみで、自分をも他人をも瞞着する疑似宗教的な擬態集団へと下落してしまう、と思う。
 『法華玄義』に云く、「権実の正軌を示す、故に号して法と為す」の精神の復古改新である。正直捨権の道理を失念してはならない、と思う。


 七、高祖の略伝に学道の正気を習う

 そこで、高祖大聖人の一期生涯の中、折伏法難二十二ケ年にわたる妙経談義と玄題布教の本地たる鎌倉松葉谷の御小庵(法華堂本圀土妙寺)に目途を定めて、略伝を作成して、高祖大士の信の行道による学道の正気(=根本精神)を串習(=くりかえしならう)したい、と思う。かくして新たに略年譜を作成すると、左の如し。
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 大聖人は、承久四年・貞応元(一二二二)年二月十六目、日本国は安房の国小湊の民の家(?)に生まれ、幼名を薬玉丸(?)という。出自については特に研究を要する。法華学報別冊第一号・第二号をもってせられたし。
 天福元(一二三三)年五月十ニ日、子細あって十二歳で発心して清澄に入山し、名を善日麿(?)と改める。人生・仏教・国家(承久の変)に対する疑念を解決しようと立志して、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給えー此の願を立つ」と立願する。
 嘉禎三(一二三七)年、十六歳、出家して是聖(剞ッ)房蓮長と号し、時を得て所願成就の確信を得る。すなわち学の規準として文・理・現の三証を会得し、証の根拠として人・文・識・不了義に依らず法・義・智・了義経に依るという知解を領得する。
 暦仁元(一二三八)年、十七歳、鎌倉に遊学して禅宗・浄土念仏を習学し、仁治三(一二四二)年、二十一歳、帰山して『戒体即身成仏義』を述作し、次いで叡山に遊学し、叡山三塔の総学頭大和庄俊範のもとに天台法華を従学して、東塔無動寺が谷の円頓坊の主となり、横川の華光坊を兼ね、京、園城寺、高野、天王寺等、諸山諸寺に歴学する。
 建長五(一二五三)年、三十二歳、伝説によると、帰路、伊勢の大廟に日本国の柱(=主)・眼目(=師)・大船(=親)とならんとの三誓願を奏上する。四月二十八日(新暦六月二日)、清澄山旭森に正直捨権の道理により(=所観の本尊を目して)能観の題目を但信口唱し立教開宗して日蓮と自称し、諸仏坊に説法して地頭の東条景信の迫害をうけ、清澄を去る。翌年より鎌倉は、小町に辻説法を始め、法華堂にて『摩訶止観』を講ずる。
『霊場記」・『公布録』によると、聖人は建長五年ハ月二十六日に富本常忍・藤井某・藤五郎長勝とはかって鎌倉松葉谷に一宇を結び法華堂と号する。『本圀寺年譜』によると、法華経一部を本尊として、法華堂本圀(劒)土妙寺と称する。
 正嘉二(一二五八)年、三十七歳、近年より天変地夭たえず、その原囚を求めて岩本実相寺の経蔵に入り、一切経を閲読する。
 文応元(一二六〇)年、三十九歳、五月二十八日、私的な勘文として『立正安国論』を撰述、七月十六目、前執権の最明寺入道時頼に進上して、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべし、法華の正法・実乗の一善(元意は一妙三秘)に帰依しなければ、白界叛逆・他国侵逼の二難があるべしと、第一の国家諌暁をなす。八月二十八日、幕府・他宗の暴徒による松葉谷の草庵の焼打に会い、下総の富木氏の下に難を避ける。
 『年譜』・『霊場記』によると、文応元年八月二十七日に、松葉谷の草庵(=御小庵)夜討あり、岩窟御猿畠(後に法性寺立つ)に逃れる、とある。
 翌弘長元(一二六一)年、四十歳、五月十二日、伊豆に流罪され、船奉行の舶守弥三郎の宅に逗留する。伊東の領主は聖人に帰依して立像の釈尊を献上する。
 同二(一二六二)年、四十一歳、三月十日、『教機時国抄』を撰して、正しい宗教を判定する教・機・時・国・序の五義の教判を示し、自ら法華経の行者と称する。
  『年譜』・『霊場記』によると、弘長二年二月十一日に伊豆流罪赦免状あり、弘長三年二月二十五日に鎌倉に帰り、七月十六日に海中出現の仏像(=立像の釈尊)を安置し、大光山本圀寺と称する、という。
 文永元(一二六四)年、四十三歳、八月に安房に帰省して、悲母の重病を治す。十一月十一日、小松原に地頭の東条景信の刃難を受ける。
 同五(一二六八)年、四十七歳、蒙古より諜状、鎌倉にいたる。執権時宗を始めとして十一通の書を投じて公場対論を促す。
 同六(一二六九)年、夏、伝説によると、法華一部を富士山(=大白蓮華王山)腹に埋蔵して立正安国を祈念する。
 同八(一二七一)年、五十歳、六月、祈雨の効験によって極楽寺良観房を強折し、七月、行敏の難状を催破する。九月十日、讒訴により評定所に召されるも、第二の国諌をなす。十二日、佐渡への遠流となる、途中、龍口の死刑の法難あるも免れる。
 同九(一二七二)年、五十一歳、正月、諸宗と塚原問答をなし、二月、人開顕の著『開目抄』を撰述して、仏使上行の自覚と妙法五字を結帰する教相(=外内・小大・権実・迹本・教観の五重相対)とを明す。鎌倉・京都に自界叛逆の兵乱あって預言、的中す。
 同十(一二七三)年、五十二歳、二月十五日、『法華宗仏法内証血脈』撰して、釈尊・上行・日蓮の内証直授相承を明し、四月二十五日、法開顕の著『観心本尊抄』を撰述して、五重三段を説いて一品二半は脱益、題目の五字は種益と示し、観心の本尊を中心に宗旨の三秘(=本門の円なる戒・定・慧)を明し、戒壇を密釈し、七月ハ日、大曼荼羅本尊を始顕する。
 同十一(一二七四)年、五十三歳、二月九日、流罪赦免。四月八日、柳営に禅・念・真言を破折し、「蒙古の襲来、今年は過ごさし」と第三の国諌をなす。五月十二目、鎌倉を発ち十七日に身延に入る。七月二十五日、蒙古調伏大曼荼羅を書写する。十月より蒙古襲来、他国侵逼の難ありの預言的中。十二月、本地顕発万年救護の本尊を図顕する。
 『年譜』・『霊場記』・『広布録』によると、文永十一(一二七四)年五月七日に平の頼綱より松葉谷廃地の興営を命ずる書状あり、聖人は日朗人と藤井長勝に本圀寺の再興を命じ本圀寺を日朗上人に譲る、とある。
 建治元(一二七五)年、五十四歳、『撰時抄』を撰述して、自ら末法救護の正依師なるを示し、三度の国諌が如来の神の入れる大事の法門なりと明し、(立正)安国(娑婆即)寂光の実現を期する。
 『年譜』によると、建治元年三月に、長勝光圀・藤井兵太夫は、法華堂を再建し縦横十一丈余の一宇をなす。『年譜』・『霊場記』・『広布録』によると、修理亮朝康、宇野備前に書状を発し鎌倉法華堂本国寺屋地の年貢免除を依頼する。
 同ニ(一二七六)年、五十五歳、七月二十一日、『報恩抄』を撰述して、末代の人倫として報恩の信行(=知恵報恩の妙行)を示し、旧師道善御坊の菩提に資する。
 弘安元(一二七八)年、五十七歳、公場対論の風説ありとの門下の状に対して、三月二十一日、『諸人御返事』を返書して一期の所願(=公場対論・一国同帰)を明す。
  『年譜』によると、弘安元年三月に松葉谷に小客殿「安国院」を建つ、五月十五日に後宇多院より安国院建立を聞こし宣旨を賜う。聖人より目朗上人は、(輪宝)大本尊を賜わり、安国院に奉安する。のちに、本圀寺にては安国院は安国論の講場となる。
 同三(一二八〇)年、五十九歳、十一月十四日、鶴ケ岡八幡宮炎上し、明年四月、蒙古再来の警報いたる。『諌暁八幡抄』を撰して、謗法の日本国こそ正法が発る国で、世界の範となり閻浮に及ぶべしと明し、一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此なりと示す。
 同四(一二八一)年、六十歳、四月八日、『三大秘法抄』を撰して、懺悔滅罪の戒法を明し、本門戒壇の構想の大要を示し、建立の願業を後世に遺嘱する。
五月十九日、蒙古軍の海路にある頃、大日本国衛護の蒙古調伏本尊を図顕し、「小蒙古御書」を記し自国を大日本国と称して、蒙古の敗退を示唆する。七月一日、蒙古の艦船全没する。十一月、身延山久遠寺落慶する。十二月、老病重し。「波木井殿御報」に「所労の身にて候へば不定なる事も候はんずらん」とあり。
 同五(一二八二)年、六十一歳、九月八日、身延を出て、十八日、池上宗仲邸に入る。二十五日、勘文符合したれば一期の記文皆信ずべしとて、『立正安国論』を講義する。十月八日、本弟子六老僧を定め、十日、遺物を僧俗に頒ち、十一日、経一丸に帝都弘通を付嘱し、十三日、辰の刻に入滅する。
 『年譜』・『広布録』・『霊場記』によると、弘安五年二月、日朗上人は大聖人の尊像を自刻す。九月二十五日、聖人は自ら点眼し、胎内に「鎌倉松葉谷本圀寺安国院常住、弘安五年大歳壬午九月二十五日、願主大檀那藤井五郎長勝法名日隆平治光圀造立、法印日朗」と書して、生御影と称す。
 十月三日、大聖人は譲状を書し日朗上人に立像釈迦仏・立正安国論・三赦免状(いわゆる三箇の霊宝)を与える。
 安国論の講義日と生御影の開眼日との同日なるは、偶然なるや、必然なり。事実は如何、真実なるべし。

 八、高祖大士の求法講経

 『報恩抄』に「根ふかければ枝しげし、源遠ければ流れながし」とある。私どもは法縁に先行する門流の、門流に先行する高祖大士の精神の、その根源を尋ねなければならない。そして法縁を結ぶ私どもは、その根源より法水の流れに預かってこそ、真の法縁人でありうる。
 しからば法水の根源とは何か。高祖大士の求法説経の精神と門下教育の実践とのエトスにある。それが聖滅後の門流の真摯なる布教活動として結実したのである、と思う。
 すなわち大聖人は求法講経をもって門下教育を施行された。
 鎌倉期には、鎌倉松葉ケ谷の御草庵(剏苡ャ庵すなわち法華堂→本証寺→本圀寺の前身)を会場に大師講を開催して、弟子檀那の信・行・学を勧持し、門下の結束と組織化を計り、現安後善・立正安国・一国同帰を祈請して、公場対論を所願とされた。
 佐渡期にも、自ら塚原問答をなして他宗を破折し、『開目抄』・『本尊抄』の重要書ないし秘書を著述され、鎌倉在住の門弟には「弁殿に申す。大師講をおこなうべし」(定遺七五二頁)と指示されている。
 波木井三郎の来信に対して、「鎌倉に……小僧これあり。これを召して御尊びあるべし。御談義あるべし。大事の法門等、粗申す」と返信されてもいる。
 その外、書簡や返書をもって、求法の設問に対して講経(=法門談義)されている。身延期の九ケ年は、八日に釋尊御誕生の八日講を、二十四日に大師講を、それぞれ月例として営まれている。
 門弟の教育化導のためには日課として、経疏やつりもの(=一代五時鶏図など)を用いて法門談義を行い、大事の法門については急報して集中講義をされたのである。
 殊に高祖大士は求法講経を談義という言葉で明示し重視された。
 『富木入道殿御返事』に云く、「又小僧達談義あるべしと仰らるべく候。流罪の事痛く歎かせ給ふべからず。・・・命限り有り惜む可からず、遂に願ふ可きは仏国なり」(定遺五一七頁)と。談義とは法と物の道理を説き聞かせることである。
 談義の様式とその意義は、『種種御振舞御書』に云く、「眼に(摩訶)止観・法華(経)をさらし、口には南無妙法蓮華経を唱へ、夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と、法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ」(定遺九七三頁)と、『曽谷殿御返事』に云く、「抑貴辺の去三月の御仏事に鵞目其の数有しかば、今年一百余人の人を山中にやしなひで、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。此らは末代悪世には一えんぶだい(一閻浮提)第一の仏事にてこそ候へ。いくばくか過去の聖霊もうれしくをぼすらん」(定遺一六六四頁)と。
 よって、談義とは「南無妙法蓮華経を唱へるべく、諸宗の違目と法華経の深義を論談解義することである、と知られる。
 このことの意味と意義とを、私どもは、今一度、真剣に考えてみる必要がある。
 諸種の文化・宗教・哲学、仏教諸宗の教義信条などと比較研究して、法華経の甚深の意趣を追求論明すべし、と解釈することができる。
 談義のためには、資料となる経論章疏(図書)が必要である。『太田金吾殿御返事』に云く、「止観の五、正月一日よりよみ候で現世安穏後生善処と祈請仕候。本末は失で候しかどもこれにすり(修理)させて候。多く本入べきに申候」(定遺四五八百)と、『富本入道殿御返事』に云く、「又貴辺に申付けし一切経の要文、智論の要文、五帖一処に取集められるべく候。其の外論釈の要文散在あるべからず候」(定遣五一七頁)と。
 そして『曽谷入道殿許御書』に云く、「予倩事の情を案ずるに、大師、薬王菩薩として霊山会上に侍して、仏、上行菩薩出現の時を兼て之を記し給ふ粗之を諭すか。面るに予地涌の一分にはあらざれども、兼て此の事を知る故に、地涌の大士に前立ちて粗五字を示す。例せば西王母の先祖には青鳥、客人の来るにはかん鵲(じゃく)の如し。此の大法を弘通せしむるの法は、必ず一代の聖教を安置し、ハ宗の章疏を習学すべし。然れば則ち予が所持の聖教多々之れ有りき。然りといえども両度の御勘気、衆度の大難の時、或いは一巻二巻散失し、或いは一字二字脱落し、或いは魯魚の誤謬あり、或いは一部二部損朽す。若し黙止して過ぎなば一期の後、弟子等定んで謬乱出来の基なり。爰を以て愚身老髪已前にこれを糾調せんと欲す。而るに風聞の如くんば、貴辺並びに太田金吾殿の越中の御所領の内並びに近辺の寺々に数多の聖教あり等云々。両人共に大檀那たり。所願を成ぜしめたまえ」(定遺九一〇百)と。
 大聖人は、経論章疏を御門下の重立ちに収集するように依頼しておられる。弟子等が謬乱することなく法華の深義を学習するようにと、文献図書を大切に保管することを促されたのである。あの人は本に金を借しむ等といわれないようにしたいものだ。仏祖に対する第一の給仕は、行学二道の第二の修行である。よって、学道の結果の学解は第三となる。
 当今では、仏教の諸文献も多数刊行されており、私どもにはそれらを収集する多少の金銭もある。本山や自坊に小文庫を作って必要な経論章疏や研究文献等を整備して、子弟や檀信徒に学習する機会を設けるように努力すべきである。

 九、高祖一期の祈請所願

 私ども日蓮門下の求法・布教の目的は、一体、何であろうか。
端的に言うと、但信安心・正信斉家・立正安国・地涌教化・衆生成仏・国土成仏、一国同帰・四海帰妙・通一仏土である。
 先安生前・更扶没後、現世安穏・後生善処でもある。
しかし日蓮聖人は、より直接的で具体的な目的を設定された。すなわち聖人御一生の間の祈請所願は、一体、何であったのか。このことを、私どもは確認して、自分たちは何ものであるかというアイデンティティー(存在証明)とレゾンデートル(存在理由)を確認しておく必要がある、と思う。正統性(オーソドキシー)の根拠もまた確証の要あり、である。
 本山平賀の本土寺に蔵せられている『諸人御返事』(定遺一四七九頁)に左の如くある。

  三月十九日和風竝飛鳥同二十一日戌時到来。日蓮一生之間祈請竝所願忽令成就歟。将又五々百歳仏記宛如加符契。所詮召合真言禅宗等膀法諸人令決是非日本国一同為日蓮弟子檀那。我弟子等出家為主上上在家列左右臣下。将又一閻浮提皆仰此法門。幸甚々々。
弘安元年三月廿一日戌の時
日蓮 花押
   諸人御返事
これによると、高祖一期の祈請所願は、公場対論に決定勝利を得て一国同帰をもたらし、戒壇建立(これを一同の戒壇という)を実現して、門下の出家学匠は主上・上皇の授戒の師となり、門下の公家・武家は左右の臣下に列座し、やがて四海帰妙(=通一仏土)を期すというのである。
 この希有壮大なる一大目的(しかし当時の日蓮門下と幕府内部事情との人間関係よりすると、公場対論と幕府帰依は必ずしも夢想ではなく、かなり現実性の高いものであったと思われる)に対して、私どもは非現実性を見て悲観主義(ペシミズム)から虚無主義(ニヒリズム)に陥りがちである。
 門流によっては変節に変節を重ねて立正安国論を封印(=捨閉閣抛)せんとする輩さえ出現のありていである。
 しかし、その事実を直視する冷静さを保ちながら、それを正しく踏まえて、虚無主義をしっかりと抱きながらも、困難を承知のうえで、未来の一大目的にむかって現段階での可能なる作すべき理想を創造して、短期・長期の計画を立案し、異体同心して、着実に現実を歩みゆくべきである。口外も詮なし、秘すべし、時を待つべし、をこころしてである。
 要するに聖人一期の祈請所願に対して、私どもはそれを精神の内面においてしっかりと紹継するという続種護法の能動的保守主義と、その祈清に向かう可能なる現実的目標を設定して、一つずつ着手してゆくという現実的革新主義とを、双運の行として選択するべきである、と愚考する。急ぐことはない、ひたすら歩むことである。
 しかも、私どもは日蓮聖人の御生涯をロマンある上行菩薩後身の、この世、娑婆三界における菩薩の物語、真の歴史(ヒストリイ)として受け取ってゆくべきである。受け用いてゆくべきである。
 かくして、高祖一期の祈請所願に対する目的合理性の原点は、求法講経・説法布教にあり、護持正法にある、自ら内法事観の妙処を相続するにある、と結論せられるであろう。

 十、公場対論と殿中問答

 高祖大士が公場対決をもって本望となし玉うたこと、『諸人御返事』の文にありて、分明である。
 十一通御書の御文言もまた、すべからく諸宗の僧侶をして憤を発さしめて、公場対論を企てしめ、もって折伏せんと欲するの計策であった、と見られている。
 一妙導師の『祖書綱要』に次の如くある。

 故に東寺・天台の真言師を以て公場対論の相手と為して、彼の真言の事相三密の邪法を打破して、此の本門事の三大秘法の正法を建立し、彼の金胎両部の小曼荼羅を打破して、此の本門未曾有の大曼荼羅を建立せんと欲す。
 若し此の大事を顕はさば、則ち彼等弥々畏れを為して対決を為す可からずと。故に佐渡以前、破立の大事を隠覆して先づ念仏宗・禅宗等を責め給ふ。
 故に『三沢抄』に云く、「法門の事は佐渡の国へ流され候ひし以前の法門は、但だ仏の爾前の経とおぼしめせ。此の国の国主(我)代をもたもつべくば、真言師等にも召し合せ給はんずらん。其の時にまことの大事を申すべし。弟子にも(内内)申すならば、披露してかれら知りなんとす(凾ず)。爾者、よせ召し合せられじ(凾謔熏じ)と思ひて各々にも申さざりしなり」と。
 其の中の『鎌倉殿披露の御書』に云く、「抑も正月十八日に西戎大蒙古国より牒状到来す。日蓮先年諸経の要文を集めて之を勘へたること、立正安国論の如く少しも違はず符合しぬ。日蓮は聖人の一分に当れり。未萌を知るが故なり。然る間重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止め給へ。然らずんば重ねて又四方より責め来たる可きなり。速やかに蒙古国の人を調伏して我国を安穏ならしめ給へ。彼を調伏せられん(被)事日蓮に非ずんば協ふ可からず。諌臣国に在れば其の国正しく、諍子家に在れば其の家直し。国土の安危は政道の直否に在り。仏法の邪正は経文の明鏡に依る。(乃至)詮ずる所は万祈を抛って諸宗を御前に召合せ仏法の邪正を決し給へ。澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤なり。闇中の錦衣未だ見ざるは愚人の失なり。三国の仏法の分別に於ては殿前に在り。所謂る阿闇世・陳・隋・桓武、是れなり。敢えて日蓮が私曲に非ず。唯だ偏に大忠を懐くが故に、身の為に之れを申さず、神の為、君の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり」と。
 しかしながら、聖人御在世中には、公場対論による立教決定の機会は来至しなかった。残念なことである。それには必然の意味がある。
 しかるに大聖人の滅後に、北条幕府(長崎入道円喜の策謀か)は諸宗との問答対決をもって日蓮門下の敗北を策し、一挙に日蓮門下の鎌倉追放と宗門禁断を謀ったのである。
 すなわち日朗上人(七十六歳)の下に公場対論の命が下った。
 しかし、朗尊は老齢の為、弟子の朗門九鳳の一人、摩訶一阿闇梨日印上人を代理として幕府の命ずる所に赴かせた。
 日印上人は、文保二年十二月二十目、元応元年九月四日、十五日の三回(大小六回とも)にわたり、諸宗を権実論をもって催破(=折伏)し勝利を得て宗門の危機を救った。人も知る世に云ふ文保二年(一三一八)の鎌倉殿中問答である。
 日朗上人は、この法勲を嘉賞せられて、日印上人に、大聖人より弘安五年十月三日に授与されていたところの、伊豆海中出現の御持仏の立像の釈尊、大聖人御自筆の立正安国論、伊豆・龍口・佐渡の法難赦免状三通と共に、正嫡付法の譲状を譲与された、と伝説される。そして大経阿闍梨日輪上人の賢度により三位日静上人に継承せられ、代々付法嫡伝して現在にいたったのが、本圀寺に伝わる、いわゆる三箇の霊宝(=重宝)である。
 殿中問答、果たして有りや無しやについては有りであり、霊宝の譲受は真か偽かについては真である、と私は確信するにいたっている。四條門流妙顕寺の『龍華秘書』にも「印聖人鎌倉殿にて殿中間時」云々とある。
 詳細は『本圀寺史料』六八−五二頁、『法華学報』第三・第四号所収の陣門の松吉慶憲師の論文を参照されたし。殿中問答について印師の御弟子の三位静師(一二九八ー一三六九)の記録したものが、いわゆる『鎌倉殿中問答』として数本現伝する。達師法縁祖の了義院日達上人著の『鎌倉殿中問答記録略註』も現伝して興味ぶかい。
 私どもの留意するべきことは、公場対決を一大目的とされた高祖大士の所願を紹継して、殿中問答で勝利して宗門を敗滅の危機から救い、変毒為薬して更なる発展へと前進せしめた先師の正気(=正直なる気魄)である。尊いことである。
 八宗の章疏を習学し、諸宗の違目と法華の深義を論談して、求法講経・説法布教に専修した由緒ある先師の流儀に、私どもは感動を覚える。紹継すべきことである。

 十一、大光普照本国土妙寺

 公場対論で勝利を得て一国同帰を目して立正安国を実現するというのは、一妙三秘の中、所観の本門本尊(本果妙=正直捨権の道理=調和)と能観の本門題目(本因妙=四恩報謝の妙行=律動)との能所一体の信行の上に成就される本門戒壇(本国土妙=懺悔滅罪の戒法=節度)を、深信観成より国中現成へと推進することである。
 本国土妙、それは本門十妙の中、根本三妙の総別終窮である、と見られよう。
 本国土妙を理想とする本山寺名は、京都の大本山本圀寺と関東の平賀の本山本土寺とてある。この二山は特別の使命をもった精舎である、と思う。山主貫首は自覚すべきことである。
 本圀寺は、京洛における吾が宗門の高祖御霊蹟の巨刹として帝都弘教(剄O通)に重きをなした勅願道場である。
 建長五年(一二五三)八月二十六日、高祖日蓮大聖人が鎌倉松葉ケ谷に法華経一部を本尊として法華草堂(=法華堂本圀土妙寺)を開き、伊豆法難後の弘長三年(一二六三)七月十六日、立像の釈尊を奉安して大光山本圀寺と称して創設された宗門史上最初の祖跡寺院である。尊重しなければならない。興隆せしめなければならない。
 御法難の為に御出入りはあられたが、高祖御生涯中の中心となる二十二ケ年に亘る立正安国の国諫運動を展開された最も大切な布教の根本道場である。失念してはならない。正念すべきことである。
 高祖の身延入山及び御入滅後は、日朗・日印・日静の各上人が時の政治の中心鎌倉に在って護山継承され、身に寸鉄をも帯びずして、幕府の弾圧に対処しながら、正法宣布の使命遂行にあたられた。その御苦労を、私どもは想起し、自らを正し、その御精神を受け継がなければならない。奢侈を去り、上慢を捨て、質素を求め、勤倹にして金品は、これを護法に用いなければならない。
 山号の大光山の大光とは、大光普照の義であり、それは妙法五字の光明に照らされて本有の尊形となれる本尊の、深信観成して、本因本果円妙具足し、国中現成せる四土具足の本国土妙・常寂光土を目的として表顕する、と理解される。

 十二、六老僧及び門徒、その分張

 教師用の日蓮宗手帳には、日蓮聖人略年譜を示して、「弘安五(一二八二)年十月ハ日、六老僧を定める。十月十三日、辰の刻(午前八時)ご入滅。十四日子の刻(真夜中十二時)ご葬送の儀。十九日御聖骨池上を立ち二十五日身延に着く。弘安六(一二八三)年五月御聖骨を身延御廟所に奉安す」とあり、直後に日蓮宗近・現代略年譜が続く。すなわち御聖骨奉安より明治五(一八七二)年小教院設立までの五八九年間の宗門史の年譜を全欠する。一体、これは、どうしたことか。
 これは、現代の日蓮宗が宗史を軽視し先師の功績を失念していることを意味しているのではないか。吾が日蓮宗に有って他教団・新宗教に無いものは、妙法の命脈を紹継してきた光輝ある宗史と先師の法勲である、と思う。
 宗史を見ると、正当なる発展もあり変転せる退嬰もある。しかし私ども教師が、法縁を思慕するのは、自己の正統性と存在性の証明を、宗史と先師の法勲に推求するからである。
 よって、私どもは師資相承の源泉に立ち戻る必要があるであろう。
 吾祖大聖人は、御臨終(弘安五年一二八二年十月十三日)に際して、本弟子六人を選び定められた。
 六人とは、六万恒河砂の地涌の菩薩の義か、『貞観政要』の六臣の聖人の義かに由来する。五品位の正行六度の意味もあろう。後世六老僧と尊称される。
 辨(また大和)阿闍梨日昭、大国阿闍梨(剪}後房)日朗、白蓮房(剩後ヒ房)日興、佐渡公(剿ッ部公)日向、伊豫公(剄b斐公)日頂、蓮華房日持、以上の六上人である。
この順序は不次第と仰せられた、と伝える。入門の年次によるとも見られている。日昭上人は高祖より一歳年長、権律師の官位、法印の僧位あり。日興・日持の両上人は、もと天台の学僧、日朗・日向・日頂の三上人は幼年時に入門する。
 高祖大聖人の入滅時に、昭師は六十二才、朗師は四十才、興師は三十七才、向師は三十才、頂師は三十一才、持師は三十一才であった。他に大進阿闇梨某、三位阿闇梨日行なども知られる。
 この六老僧およびその門徒の人々の布教伝道を経て、一百年より後になると、六門流も分派し、異義を主張する人々も出来して各派の分立する時代を迎える。
 私どもは法縁の原流として門流各派の流類を再確認しなければならない。よって、その門流各派の系図を簡略化して明示すると、次の如くなる。
 日蓮門下として多少なりと承知しておくべきことである。

日昭(聖滅42・1329年寂・103歳
 ├1日祐(聖滅81寂)──伊豆玉澤妙法華寺二祖
 └2日成(聖滅56寂)──越後村田妙法寺二祖
日朗(聖滅39・1320年寂、78歳)
 ├3日像(聖寂61・1342年寂、74歳)京妙顕寺開山
 ├4日輪(聖滅78寂、88歳)──鎌倉妙本寺、池上本門寺三祖
 ├5日傳(聖滅60、95歳)──平賀本土寺二祖
 ├6日澄(聖滅45寂、88歳)──熱田本遠寺開山
 ├7日印(聖滅47・1328年寂、75歳)越後本成寺開山
 ├8朗慶(聖滅43寂)──中延妙法華寺開山
 ├9日善(聖滅51寂、70歳)──京寶國寺開山
 ├10日範(聖滅38寂)──丹波常照寺開山
 └11日行(聖滅49寂、62歳)──佐渡本光寺開山
 ┌─────────────────┘
 └12日静(聖滅88・1369年寂、72歳)京本圀寺開山にして四祖
 ┌─────────────────┘
 ├13日陣(聖滅138寂、81歳)──越後本成寺二祖・京本禅寺開山
 └14日傅(聖滅128寂、68歳)──京本圀寺五祖
 ┌──────────────────┘
 ├15妙實(聖滅83寂、68歳)──京妙顕寺二祖、いわゆる大覚大僧正
 ├16妙文(聖減77寂、84歳)──越後妙泰寺開山
 └17日乗(聖滅99寂、110歳)──能登妙成寺二祖
 ┌─────────────────┘
 └18朗源(聖滅97寂、53歳)──京妙顕寺三祖
 ┌─────────────────┘
 └19日實(聖滅97寂、61歳)──京妙覚寺開山にして四祖
日興(聖滅51・1332年寂、88歳)
 │本六人
 ├20日日(聖滅52寂、74歳)大石寺二祖
 ├21日華(聖滅53寂、88歳)鰍澤蓮華寺祖
 ├22日秀(聖滅48寂?)下野房
 ├23日禅(聖滅50寂)少輔房
 ├24日仙(聖滅56寂、91歳)讃岐高瀬大坊主
 │日乗(………)
 │新六人
 ├25日代(聖滅113寂、98歳)西山本門寺開山
 ├26日澄(聖滅29寂、49歳)新六人の日澄は寂仙房重須大学頭としては、少しく不審なり
 ├27日道(聖滅60寂、60歳)大石寺三祖
 ├28日妙(聖域84寂、80歳)重須本門寺二祖
 ├29日郷(聖滅95寂、81歳)安房妙本寺開山
 ├30日助(聖滅106寂)富士下條東光寺祖
 ├31日尊(聖滅64寂、81歳)京上行院開山
 ├32日満(聖滅79寂、89歳)佐渡阿佛房寺三祖
 └33日順(聖滅73寂、61歳)重須二世大学頭
 ┌─────────────────┘
 ├34日伊(聖滅92寂)京上行院二祖
 └35日大(聖滅88寂、61歳)京住本寺開山
 ┌──────────────────┘
 ├36日叡(聖滅88寂、61歳)日向定善寺祖
 └37日傳(聖滅135寂、77歳)富士妙蓮寺久遠寺主
日向(聖滅33・1314年寂、62歳)
 ├38日進(聖滅49寂、76歳)身延山三祖
 └39日秀(聖滅63寂、70歳)藻原寺三祖
 ┌─────────────────┘
 └40日善(聖滅65寂、76歳)身延山四祖
 ┌─────────────────┘
 └41日臺(聖滅85寂、46歳)同五祖
 ┌─────────────────┘
 └42日院(聖滅92寂、62歳)同六祖
 ┌─────────────────┘
 └43日叡(聖滅119寂、83歳)同七祖
日頂(聖滅36・1329年寂、66歳)………
日持(聖滅14・1300年、海外伝道、46歳)
 └─日教
  44日常(聖滅18・1299年寂、84歳)
富木五郎胤継、入道して常忍という。
中山法華経寺 開山
 ┌─────────────────┘
 └45日高(聖滅33寂、58歳)同二祖
 ┌─────────────────┘
 └46日祐(聖滅88寂、72歳)同三祖
 ┌─────────────────┘
 └47日尊(聖滅118寂、78歳)同四祖



 外に後世に中老僧と称せられる人々あり。野呂妙興寺開山日合(聖滅一二・一二九三年寂)、上総鷲山寺開山日辨(同三〇寂、七三歳)、沼津妙海寺祖日實(同三三寂)、小湊誕生寺開山日家(同三四寂、五八歳)、村松海長寺開山日位(同三七寂)、品川砂國寺開山天目(同五六寂、八一歳)、雑司ケ谷法明寺開山日賢(同五七寂、九六歳)、岡宮光長寺開山日法(同六〇寂、九十歳)、岩本實相寺祖日源(同三四寂)、仙台光勝寺開山日門(同四五寂)、小室妙法寺開山日傳(同二一寂)、興津妙覚寺開山(同二一寂)、相州島妙興寺祖日忍(同三○寂)等の人々の各地伝道も失念してはならない。
 ことに朗、興、向、常の門葉が後世まで広く教線を拡張したといえよう。
 大聖人御在世の化跡は、鎌倉の松葉ケ谷小庵を中心にして、房総・常野・武・相・甲・駿・越・佐の地方に限られた。滅後、昭門は豆州・越後より発して関東諸州に、興門は甲・駿を本として四国・九州・奥州・房総・武相豆・常・野・佐渡・山陰に、向門は甲総に拠して奥州・武相等に、常門も両総を本として近畿・九州に及んだ。
 ことに朗門は武相・近畿を本として房総・越佐・山陰・山陽・四国・東北にまで及んだのである。よって、すなわち莚師法縁の出世寺の本圀寺も縁頭寺の本満寺も朗門流類である。

 十三、本圀寺学道講に至る歴史的系年譜

 本論の十二に六老僧及び門徒、その分張について述べて、わが莚師法縁の出世寺の大本山本圀寺も縁頭寺の本山本満寺も、朗門の流類であることを示した。
 ここでは、朗門六条門流の歴史系譜を確認しておきたいと思う。

 すでに本論の六に檀林の学系は高祖の学道に姶源するとすべしとして、本圀寺の学道講を序分として重師を初祖とする求法講院の開設までを説いたので、本圀寺の学道講の開設に至るまでを通覧しなければならない。
 よって、これより以下、本論の七の宗史の年譜の後続である。『霊場記』・『広布録』・『本圀寺年譜』・『本圀寺雑用録』等の記録を合揉して示すと、次の如くなる。

 弘安五(一二八二)年十月十三日、高祖大士、辰の刻に御入滅す。
 正安二(一三〇〇)年正月、久明親王将軍夫人(=惟康親王将軍の息女)、本圀寺に参詣し立像仏を拝す。
 乾元元(一三〇三)年、久明夫人、守邦親王の誕生により、光明皇后の御経を納め祈願所となして、武蔵児玉・下野中沼の三百貫文の地を寄進する。
 嘉元三(一三〇五)年、守邦親王の延長を祈り、徳治元(一三○六)年、立像堂四面木村の柱なり、御影堂なる。
 徳治二(一三〇七)年、久明親王、四方四町の地を寄進し、長子守邦公の延長を祈り、御台所、本圀寺を建立。
 四月八日、守邦親王・母堂、参詣して開堂あり、四月、山門を建て仁王像を奉ず。五月廿八日、事始め、六坊斧始めあり。五月再興なる。即ち境内に囲壁を構え、大堂を建立して立像釈迦牟尼仏を安置し、内院の持仏堂に御本尊を移し、中央に印師自筆の一字三礼一部八巻を安置する。
 (即ち輪宝の曼荼羅を)常住本尊となす。この旧例により、今に至るまで、年頭の天下御祈祷の時は、本堂に奉安し、立像堂に移して三箇日、諸人におがましむ。この旧例を再興すべし。
 同年八月六日、(五月二十八日に六坊斧始めせし)六院なるも、別に(朗尊の住する)大国院を建つ。池田本覚寺日位 、豊龍麿(=日静上人)を携え本圀寺に来たる。日朗上人、豊龍麿に本圀寺の帝都移遷を依嘱する。八月二十六日、建立成就す。六坊(六院)とは六老僧の坊なり。大国院とは大国阿闍梨日朗上人坊ならん。松葉谷妙法寺に現存する絵図には六老僧の坊が描かれているをもって知るべし。
 延慶二(一三○九)年、年中行事あり、守邦親王将軍のため祈祷、正和元(一三一二)年、守邦将軍の母堂、正月一日に執権高時のため日朗に祈祷を命ず。四月八日に参詣し書院の建立を発願する。五月斧始めして十月朔日に書院なる。
 正和三(一三一四)年、日静、本圀寺日朗に仕えて、六月、日印の弟子となる。
 文保二(一三一八)年、十二月二十日、日印、鎌倉柳営の中長崎円喜の休憩所で十宗坊と宗論をなす、元応元(一三一九) 年二月に重ねて対論す、九月十五日に殿中で伊羅護律師道日と対論し勝利す。日静、問答の次第を記録す。いわゆる『鎌倉殿中問答』なり。了義達師の『記録略注』あり。
 元応元年十月十三日、朗師、印師に譲り状を与える。元応二(一三二〇)年正月朔日、三祖、天下安全の祈願をなす。ここで云う三祖とは、朗師・印師・静師なり。
 元応二(一三二〇)年、正月十日、朗師、大国院に八老僧を集めて遺言し、静師に本圀寺の帝都移遷を命ずる。二十一日、寂す。二月十三日に印師、(南朝)後醍醐天皇の宣旨を受ける。居住の房を摩詞一院と号す。
 元亨元(一三二一)年、正月朔日、祝賀、四海太平祈祷の巻数を守邦親王将軍に献ず。同二年八月、石井山長勝寺開堂大法会あり。よって、松葉が谷本圀寺の旧跡は、松葉谷妙法寺の地、と知るべし。全く安国論寺にあらず。
 嘉暦三(一三二八)年十一月二十二日、日印、譲り状を記し、本圀寺を日静に譲る。二十一日、「法華宗日静上人御房」として(南朝)後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜う。
 元徳元(一三二九)年、正月、将軍家祈祷の巻数を献上す。十二月二十三日、帝都祈祷の巻数を献上す。同二年、年中行事 あり。
 正慶二(一三三二)年、五月八日、新田義貞、鎌倉を攻める。二十二日、北条家滅亡す。守邦公剃髪す。鎌倉騒動ありて、八月十日、日静、足利直義に言上し制札を乞う。
 建武二(一三三五)年、甲戌年、日静、三十八歳にして、上洛す、本圀寺の草創なり。九月一日、足利尊氏、本圀寺に参詣す。武運長久の祈祷あり、日静に大衣を賜う。
 建武三年二月二日、足利尊氏、九州に敗走す。日静、祈祷の巻数・守等を大乗坊日全を使僧として、西国に尊氏に使わす。尊氏、筑紫の多々良浜にして、これを頂戴し鎧の肌に納め守を兜の天空に封ず。
 建武四(一三三七)年三月、尊氏、本圀寺に参詣す。永く勅願所となすべし、となり。甲冑太刀を本圀寺宝殿に納む。
 同年七月六日、(北朝)光厳天皇より院宣を賜る。御祈祷の事云々。尊氏の執奏により勅願所となる。十月二十七日、光明天皇より勅願寺綸旨を賜う。他に正月十三日付、三月十七日付、八月二十四日付の綸旨あり。毎年、院家輪番で年礼を京都に捧げる。
 暦応元(一三三八)年五月三日、尊氏より制札を賜う。
 同 二(一三三九)年、四院あり、六月、本圀寺遷都の勅あり。院家の日裕、上洛す。十月、日静、上洛し参内す。帰鎌の後に 、末寺に遷都の勅命を伝う。
 同 三(一三四〇)年、主上、尊氏に命じて本圀寺に紫衣・緋衣を賜う。
 同 四(一三四一)年三月二十四日、日静、上洛し参内す。三位大僧都に任ぜられ、朝扇を拝領す。
 康永元(一三四二)年四月八日、遷都の義、院家・末寺も共に遷都とする。
 同 二年十月、院家、上洛し、油小路隆蔭の別業の七条館に仮居を定む。
 同 三(一三四四)年三月、日静、本圀寺遷都のため鎌倉を発つ。法性寺・四院家を伴う。二十四日、京都着。四月八日、定慶法印の新彫の釈迦多宝像、日朗本尊云々。将軍より六条陽梅の地、東西二町・南北六町の地を賜る。五月、本圀寺境内の杭打、五月十三日、斧始め、両尊・本尊遷座す。十月三日、開堂す。
 良和元(一三四五)年、鎌倉本圀寺、京都六条に遷都せり。十二年の間に遷都造営成就す。其の間、日静、京都鎌倉上下往来すること両三度に及べり。二月下句、法性寺日憲、大法寺・妙階寺・天霊寺・本教寺、霊像・霊宝を伴い鎌倉を発ち小田原本久寺を経由して、三月十一日、京都に着す。
 録・譜によると、三月七日(記には十日?)、光厳天皇より遷都の院宣あり。十一月二十一日(二日?)日 、尊氏・直義両判の奉書「六条法華堂屋敷」云々とあり。
 貞和二(一三四六)年、日静、祖師・朗師・印師の尊像を刻す。
 同三年十月二十七日、光明院より祈願所の綸旨を賜う。
 同 四(一三四八)年、五月十五日、三位(大)僧都日静、光明天皇より日蓮正嫡(的伝)の綸旨を賜う。十二月二十七日、尊氏より立像供養の巻数の返書を賜う。六月三日、直義より制札を賜う。目静は上杉頼重の子にして尊氏の外叔父なり。
 同 五(一三四九)年、三月十三日、光明天皇より綸旨を賜う。天下静謐の祈祷をなす。同十七日、光明天皇より綸旨あり。
 観応元(一三五〇)年、二月、仁王門を建て両金剛力士を奉安し八月に開眼供養す。八月二十四日、光明天皇より祈祷の綸旨あり。
 同 二(一三五一)年、鐘楼建つ。五月四日、崇光院より四海静謐祈祷の論旨あり。
 文和二(一三五三)年、山名氏謀反ありて天下騒動す。十二月八日、義詮より変異謹慎の祈祷の奉書あり。
 文和三(一三五四)年十月三日、(北朝)後光厳院より祈祷の綸旨あり。
 延文元(一三五六)年二月、尊氏・義詮より木材を賜り祖師堂斧始めあり。
 同 二(一三五七)年、祖師堂建立し、祖師・朗師・印師の三祖像を奉安し御影堂と称す。九月朔日、遷座供養の大法会を奉行す。同月十日、義詮より祈祷の奉書あり。
 同 三(一三五八)年四月二十九日、尊氏没す。五月二目より二十九日まで、義詮、亡父の供養のため千部会を修す。
 貞治三(一三六四)年二月八日、日静、譲り状を書し(大円阿闍梨)日傳に付嘱す。
 十月二十五日、釈迦多宝両尊の造立を始む。願主は法印日静、仏師は民部卿法印定慶、絵師は大夫法橋忍定、塗師は左衛門三郎友行なり。
 同 四(一三六五)年、十一月二十五日、南朝後村上天皇の綸旨あり。九月三日、義詮より祈祷奉書あり。
 同 五(一三六六)年、十月八日、釈迦多宝両尊の開眼供養をなす。導師は大僧都日静、式師は律師日伝、伽陀師は阿闍梨 日算、楽官は対馬将監、列衆は十余人なり。
 同 六(一三六七)年、九月、義詮不例、日静の祈梼効ありて刹堂の木材賜う。十二月七日、義詮没す。
 応安元(一三六八)年二月七日、義光、亡父義詮追善のため法華経一千部読誦を供養す。本堂西東面の刹堂なる。
 応安二(一三六九)年五月、日静疾す。七条大法寺・綾小路妙階寺・姉小路天霊寺・五条坊門本教寺・若狭長源寺・三河深  溝長満寺・相模三浦大明寺・鎌倉松葉谷妙法寺・石井長勝寺・小田原本久寺・越後三条本成寺・金津妙蓮寺・角田妙光寺・新潟本覚寺・日浦大光寺、法性寺、登詣す。同月廿七日、日静寂す。渋谷法華寺、登山す。同年十月、大円律師(=大円阿闍梨)日傳、入山す。二十日、猶子式あり、日野家にてなり。
 応安三(一三七○)年、毎月、六筒日の出仕を定む。院家四人に二人を加えて学道となす。中老六人をもって評定となす。四月、将軍義光、大書院の観柳亭に入る。
 応安四年二月、小書院建つ。同五年二月、庫裡・本堂修復す。同六年、義光、勅祈をなす。六月十四日、(北朝)後円融院より綸旨あり。
 永和元(一三七五)年、義光、前年の筑紫菊池の合戦勝利の謝礼として木材を寄進す。同二年二月、大客殿斧始めあり。
 康暦元(一三七九)年八月、大客殿建立祝賀供養をなし三宝を遷座す。
 同二年三月、三十番神社上棟す。四月、八日講を十三日に定め定式とす。又、二十一日講を企つ。十一月八日、番神社・拝殿の遷宮を成就す。
 永徳元(一三八一)年、浴室建つ。十月、諸末寺を登山せしめ、高祖百年遠忌報恩千部会を修す。
 同二年境内処々に高麗門を建てる。
 至徳二(一三八五)年、五重の宝塔の斧始めあり。
 同三年四月八日、五重の宝塔成就す。釈迦・多宝、四天王を奉安す。
 嘉慶元(一三八七)年二月、本堂の傍、東南面に鼓楼堂建つ。
 明徳元(一三九〇)年四月二十九日、足利義満、祖父尊氏三十三年忌追善供養を本圀寺に修す。関白・公家殿上人、五山僧侶等、参詣し、法華八講・頓写あり。
 応永四(一三九七)年八月廿三日、(本圀寺旧跡地)鎌倉松葉谷妙法寺日栄、本圀寺を本寺とする旨、誓状を捧ぐ。
 日静の弟子の日陣、本圀寺に法華経を講じ本迹勝劣を説く、以後八年間、日傳と争う。一致派に対し勝劣派の始めなり。日陣、教相勝劣教旨一致の密意を知らざるなり。
 同五年二月十目、後小松院より正嫡付法の綸旨を賜る。日傳、参内して宝牘を献上する。六月、宝物の虫払いをなす。
 同六年十二月七日、義持より諸公事臨時課役免除の奉書あり。
 同十一年日傳、『五十五箇条難勢』を本成寺日陣に送りて追放す。
 同十四年日傳、泉州堺の成就寺に赴き日験に本尊を授与す。同十五年、義満没す。日傳、諷経・拝礼す。
 同十六年日傳、譲り状を書し、一意房(=一意院)日経に与う。四月一日、日傳、寂す。日経は十五歳なり。十二月、朗師九十年忌大会を奉行し、日経説法す。「至尊児貫首」と呼ばる。
 同十八年一月十二日、日経寂す。舎兄の本高院日厳、後住となり二月初、登山す。
 応永十九(一四一二)年三月二十五日付、義持、日厳に普賢経一千巻読誦をもって、洛中静謐を祈らしむ。
 同二十一年四月五日、傳師弟子大周院日聰を学道の魁とし、法門貫首となす。
 同二十二年正月、学道講を始む。後に二十日講と称す。これ学道求法講院の前序なり。

 十四、正嫡付法の鳳詔綸旨 (しょうちゃくふほうのほうしょうりんじ)

 以上により、多生の付言をなそう。本圀寺が求法講院の前序となる学道講を設立して法華教学の振興推進を計るに至ったのは、一致勝劣の問題に対処し解決を目指したからであろう、と推考される。
 私ども日蓮門下は、求法・布教を念頭におくときに、求法という点て正嫡付法(本圀寺)の正念を想起し、布教という点て四海唱導(妙顕寺)の正精進を振起し、付法・唱導の双運の行を復権しなければならない。
 ことに自己の正統性の根拠を自覚し、存在証明の原則を確認し、日蓮が一門となりとおす自信と抱負をもって布教化導に専念するために、上行所伝の要法五字の付嘱(=要付)を、本化の正統なる眷属(=正嫡)として自らとりつぎ(付法)する、という正嫡付法の正念を実あらしめるべきである。
 本圀寺の第四祖の三位日静上人は、祖願(=高祖の願業)および朗尊・印師の遣誡をまもり、高祖より摩頂付嘱を受けられた帝都弘通の上首・妙顕寺の日像菩薩の帝都弘通に併せて、本圀寺を国都双輪の法華道場とする、という偉功を樹てられた。共に朗尊の功に帰する。
 南北二朗の正閏桔抗に相応して二大本山の因縁にも先聖諸師の賢慮にも甚深のものがある。
 嘉暦三年、南朝後醍醐天皇の鳳詔綸旨、建武四年、北朝光厳院の鳳詔綸旨を受け、共に本朝公認の法華宗門の先達となった。
 やがて北条幕府が亡び政権が鎌倉から京都に移って、貞和元年(一三四五)三月、日静上人の時、大光山は光厳天皇の直諚により、京都六条楊梅の地に東西二町・南北六町に渉る広大な永代寺領を賜り、鎌倉松葉ケ谷から京都へ立正安国の大道場本圀寺として移遷されるに至った。
 貞和四(一三四八)年五月十五目、日静上人は光明天皇より正嫡付法の綸旨を賜り三位(大)僧都に任ぜられた。静師は名門上杉の出身であり足利幕府の外戚に当る。
 かくて皇室の庇護と幕府の外護及び大衆の尊信を集めて開花隆盛を迎え、記録に遺る一大華麗な大堂、仏殿、山門諸堂の大成となり、続いて鎌倉より猿畠山法性寺外、四大坊(=四院家)を始めとする末寺諸坊の移建を見るに至った。
 光明帝より陽う正嫡的伝の綸旨はこれを書き下すと、次の如くになる。

 六条本圀寺は日蓮正嫡の道場と為て 殊に閻浮第一の釈迦仏を安ず 今日供養の旨聞食し訖んぬ 弥々法華の功力を抽て 宜しく四海太平の精誠を致さるべし者 天気此の如し 之を悉すに状を以てす
   貞和四年五月十五日

 以後、大光山は、宗門史上にあって、付法の道場(=行道)、求法の学山(=学道)として、行学二道、自他ともに任じえたのである。安土桃山期に、キリスト教セミナリオの一団を京より退去せしめたのも、六条本圀寺門流であった。ロイス・フロイスの『日本史』に見る如くである。
 なお本圀寺と本満寺との縁故については、いずれ更に次下に述べよう。
  ちなみに注記すること、次の如し。

   〔巻数〕「かんず」ともよむ。祈祷や追善のために経文を読み陀羅尼を誦するとき、その名や数を書いた目録をいう。
       後には短冊形の紙に認め、時には竹・榊などに付けるなどして、巻数一枝などという。
   〔定慶〕七条仏所第ハ代の仏工なる康運。湛慶の実弟にして、その継嗣となり、後に名を定慶と改める。
       高山寺四天王も東寺中門の仁天像もその作と伝う。
   〔頓写〕頓経とも一日経ともいう。追福修善のために一座にあって法華経を疾書することをいう。一日経は頓写会ともいう。
       多人数集まり一部の経を一日で書き了る事。諸経に通ずれども、特に法華経の頓写を本とする。

 十五、縁祖は隆源院日莚上人なり

 扨て茲で、縁祖の隆源院日莚上人の略伝を紹介し紐解きたい、と思う。

 身延三十六世(元文元年一七三六)の六牙院日潮上人の享保十五(一七三○)年に撰述し三十八巻となして、寛政九年に刊行せる『本化別頭仏祖統記』にある記事が、それである。訓読しルビ・語釈を付して示すと、次の如し。

  祖山第二十九代隆源院日莚上人伝
 
 師、譚八日莚、字ハ春山、隆源院ト号ス。蚤ク正東談林二遊ビ、智華弁弁鏃、一時、名ヲ称セラル。而立ノ春小西ノ請ヲ稟ケ、復夕正東ノ化生ト為ル。玉沢ノ雄刹二瑞世シ、次二洛ノ四海唱導ノ任二充テラル。次二祖山ノ請ヲ承ケ往年六年ナリ。天和元年辛酉正月二十七日羽州秋田府ニシテ終焉、春秋七十三。
 師ノ言二曰ク、「山僧蚤ク虚名ヲ得テ顕位二昇ル。初メハ謂ワク。遠上二十八歳ニシテ飯高ノ化生ト為ル。吾今二歳ヲ加エテ恭クモ小西ノ請ヲ受ク。一家ノ学、雌二角シテ雄ヲ較ルニ、天下之二過ギズ。今、老成ヲ以テ往年ヲ回顧スレバ悉ク是レ妄想ニシテ幾クカ諸生ヲ誤リシナラン。蓋シ遠上ハ再生ノ人カ。是ニ至ッテ天機ノ異ナルヲ知ル。吾ガ門ニ遊バントスル者、早ク顕識ヲ望ムコト勿レ」ト。輪下聞テ之二感伏ス。甲ノ円井村二清水山妙浄寺ヲ瓶建シテ師ヲ請ジテ開山祖ト為ス。初メ日延、後、身延ニ来ッテ日莚ト更タム。第十代観行院日延アルヲ以テナリ。

(し、いみなはにちえん、あざなはしゅんざん、りゅうげんいんとごうす。はやくしょうとうだんりんにあそび、ちげべんぞく、いちじ、なをしょうせらる。じりゅうのはるこにしのしょうをうけ、またしょうとうのけしゅとなる。たまざわのおうさつにずいせいし、つぎにらくのしかいしょうどうのにんにみてらる。つぎにそざんのしょうをうけおうねんろくねんなり。てんわがんねん かのとり しょうがつにじゅうしちにち うしゅうあきたふにしてしゅうえん、しゅんじゅうしちじゅうさん。
 しのことばにいわく、「さんそうはやくこみょうをえてけんいにのぼる。はじめはおもわく。おんじょうにじゅうはちにして いいだかのけしゅとなる。われいまにさいをくわえてうやうやしくもこにしのしょうをうく。いっけのがく、しにつのしてゆうをはかるに、てんかこれにすぎず。いま、ろうせいをもってゆきとしをかいこすれば ことごとくこれもうそうにしていくばくかしょしょうをあやまりしならん。けだしおんじょうはさいしょうのひとか。ここにいたっててんきのことなるをしる。わがもんにあそばんとするもの、はやくけんしきをのぞむことなかれ」と。しんげききてこれにかんぷくす。かいのまどいむらにしょうすいざんみょうじょうじをびんけんして しをしょうじてかいさんとなす。はじめにちえん、のち、みのぶにきたってにちえんとあらたむ。だいじゅうだい かんぎょういんにちえんあるをもってなり。)

 ーーー語釈ーーー

 〔諱(いみな)〕おくり名にして戒名・法号を云う。〔字(あざな)〕実名のほかにつける、世に一人まえの人として交わるときの名なり。〔正東談林(しょうとうだんりん)〕中村檀林日本講寺にして正東山と号し本宗四十四ヶ本山の一なり。〔智華弁鏃(ちげべんぞく)〕智慧ゆたかにして弁才するどきこと。〔而立(じりゅう)〕三十才を云う、論語に三十而立(さんじゅうにしてたつ)とあり。〔小西(こにし)〕小西檀林正法寺にして四十四ヶ本山の一なり。〔化主(けしゅ)〕法華文講にして法華文句講主なり。〔玉沢ノ雄刹(たまざわのおうさつ)〕玉沢の本山妙法華寺をかく云う。雄とはまされるを云い、刹とは仏土および寺地を云う。〔四海唱導(しかいしょうどう)〕四海唱導とは大本山妙順寺の勅願の賜号なり。大本山本圀寺の正嫡付法に対す、もって双輪となす。〔祖山(そざん)〕総本山の身延山久遠寺にして祖廟ありて棲神(=高祖の魂魄のやすむ)地なり。〔終焉(しゅうえん)〕晩年をおくる。一生のおわりをも云う。〔春秋(しゅんじゅう)〕春と秋、年月、年齢。〔山僧(さんそう)〕自己を卑下して云う。〔虚名(きょめい)〕うわべのいつわりの名誉や評判。〔顕位(けんい)〕とうとい位、高位。〔遠上(おんじょう)〕心性院堯順日遠上人、本圀寺求法講院に日重上人に事え学び、飯高檀林の化主文講を経て身延山ニ十ニ世となり、後に池上本門寺に移り、慶長九(一六四二)年七十ー才にて寂す。本宗中興の三師(=重・乾・遠)の一人なり。〔雌二角シテ雄を較る〕雌に角をつけて雄に較べて等しくおもいなすこと。天下世上とは、かかるいつわりのいとなみ以上の何ものでもない、との意。〔妄想(もうそう)〕まよいのおもい。〔諸生(しょしょう)〕過去世に輪廻転生し受生した諸の生存。〔再生(さいしょう)〕後有のこと、本化の眷属の再生(生まれ代わり)せし後身。〔顕職〕顕著な職位、高い役職。〔天機〕天の機密(=天命としてのはたらき)生来の機根(=資質)。
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 本山本満寺五十八世小野日憙上人の著すところあり、訓読しルビを付して示すと、次の如し。


  隆源院日莚上人略伝

 日莚上人。字は春山、隆源院と号す。洛陽の人、父を七織屋と云う。蓋し織職にして家七戸を有す故に此の称ありと。上人、幼にして中正院日護師(京都鳴滝三宝寺)の許に投じ落髪す。年十八、紀の養殊院殿、加賀の寿福院殿の外護に由り中村檀林に遊び、次いで小西檀林に移る。ニ十八歳にして能化となる。能化の職や最上級にして、幾多歳月を積むにあらずんば以て、迨ぶなし。而も年歯若冠、この要職に就く者、古来日遠(心性院)上人と師あるのみ。後、中村檀林の化主となり、次いで玉沢妙法華寺、京都妙顕寺を経て身延山第二十九世の法灯を嗣ぐ。晩年、京都紫野に隠れもっぱら風月を友とす。
 時に延宝七年二月十一目(将軍家網の治世)身延山三十代日通上人の遷化せらるるに遇い、後董の件につき二派に分かる。
 一は曰く、日通の遺言に任せ直ちに飯高の日脱(身延山第三十一世)を推選せんとする者。一は曰く、延山の大事、御鬮をもって決するの古来に傚い選挙とする者。即ち一山の衆、これを主張す。而して粉擾、日を重ねて解けず、裁決を上人に仰ぐ。上人御鬮の公平なることを諭してこれに同ず。遺言派、肯んぜず、遂に江戸に訴う。 ここに於て、上人また一山の衆に擁せられ、起って江戸に赴く。九月十二日(延宝七年)往昔龍口法難の当日、期せずして評定所に召され、時の寺社奉行板倉石見守と対論数次に及ぶ。
 即ち、その第一条に曰く、「在家の家産を其の子に譲るがごとく、出家もまた弟子に譲ること至当ならずや。蓋し日脱は日通の学弟なり」と。
 上人曰く、「在家と雖も、昔は然らざるものもあり。堯の子丹朱、不肖にして国を舜に譲る。舜の子商均また不肖なるが故に国を禹に譲る。聖賢の道みな然り。況んや、出家は方外の身徳をもって崇ぶ。弟子と雖もその器にあらざれば、即ち不可なり」と。
 その第二条に曰く。石見守曰く、「日脱はその器にあらざるか」と。
 上人曰く、「器と不器とあり。飯高の能化(日脱を指す)、隠居(莚師自身)たるより見れば、適器なるがごとし。而も宗門なお古老碩徳のあるあり。これに比すれば、不器たるを免れず」と。
 その第三条に曰く。石見守曰く、「候補者にして二人、三人なれば聞取りも可なり。今は日脱一人ならずや。何ぞ鬮取りの方を要せん」と。
 上人曰く、「否。然らず。そもそも御鬮の法は一人二人なるに関せず。その人を推選して、宗祖の御意に適うや否やを奉伺するものにして、その人を神聖にし、且つ情実を断ち、最も公明正大に人材登用を計る所以のものなれば、願くば将来ともにこの方法を厳守し、もって祖山の神聖隆威を致さんこと、切に老衲輩の希望なれば、曲げて採用あらんことを」と。
 抗弁はなはだ勤めたりと雖も、議、ついに用いられず、剰さえ、「日莚、諸寺諸山に例なき新法を企だて、特に隠居の身をも顧みず、一山に党して騒擾を醸せし段、その罪軽からず」となし、秋田の城主佐竹右京人夫へ御預けの由、申し渡さる。実に延宝七年十月四日なり。これ蓋し石見守、座中に於て上人の為に論状せられたるを意に含み、この処置に及べるもののごとく、甚だ妥当を欠くものありと雖も、台命今において如何ともするなく、上人、老後の身をもって温かき故郷に帰る得ず、北国寒山佐渡ケ島にも似たらん羽後の秋田へ配所の身となるに至りしは、洵に悲しむべきの事たり。上人、弟子八十三人。追随給仕を願う者ありと雖も、官これを許さず。ただ、僅かに小人(の)伝兵衛、平吉の両人のみ附せられ、警護の衆に導かれて十月九日、江戸を発し、途中、大久保加賀守の心添えにて諸事寛やかに道程十六日を費やし、十月二十四日、秋田に着し城中二の丸安楽寺に入る。その夜、上人夢みらく。北野天神来って梅花一枝を授く、と。覚めて後嘆じて曰く。余また洛に帰るを得じ、と。蓋し菅公、筑紫に配流せられ安楽寺に入って終帰し遂に洛に還らず、今また上人、北溟に配処せられ、この寺に入りこの夢を感ず。古今途を同じうし、先後轍を均しうす、神識相い通じて窃かに終焉を告げるものあるに似たり。故に、この嘆あり。果せるかな。後、三の丸に移り、居ること年余、延宝九年酉の正月二十七日たまたま微恙を感じ、溘然として帰寂す。寿七十三。
これよりさき、弟子の春道、春芸、恵忍等の徒、ひそかに江戸を奔って秋田に来たり、久城寺の塔中に隠れて陰かに上人を看護す。上人、またこれを知り時々書を裁して教誡す。書中 京都に在りし時はややもすれば放逸懶怠に流れ、勤行だも懈たることもありしが、当処へ来りてよりは読誦・書見も怠りなく、これ偏えに三宝の御恩ならん。汝等も勉学修行怠ることなかれ、等の文意あり。
 その死期を知るや、右京太夫に言上すらく、「老衲、不日にして臨終に迨ぶ。全国諸侯多き中、縁有ってか当処に来たり、老の身に鄭重なる御介抱何れの世にか忘るべき。先口、願に依り下し置かれたる御先祖法名の巻物二巻、幾くもなく臨終に及ぶことなれば、回向供養も心に足らず、老衲、死亡の後は、それがしに代えて弟子春道日晴に下し置かれたく、又弟子ども久城寺に在ることなれば、死後葬祭の儀は該寺にて執行のこと、公辺よろしく御取なし願い度し」等、委曲情願せられたるに、日莚最後の願、黙止し難く、すなわち採用あって遺骸は久城寺に下され、弟子の長者本圀寺日隆 妙顕寺日利 小倉山日現(京都嵯峨)等、相寄り葬儀執行せんとするに当り、有縁の衆、暫らく音容に接せざりしを悲しみ 三日の猶予を請い、以て諸人に参拝せしめんことを願う。すなわち許されて残留す。然るに死屍少許も変ぜず 色相端厳にして顔貌なお生けるがごとし。諸人奇異の思をなす。終に矢橋村不動山に荼毘す。国中の緇素訃を聞いて来たり会する者雲のごとく、葬儀はなはだ盛んなり。舎利を拾収して、身延、竜華、玉沢及び中村・小西(の)両檀林の五ケ所に分置し、厚くこれを祀る。弟子恵忍請うて不動山の傍らに小庵を結び以て居る。新たに廟堂を構え、曽って上人護持の妙見・七面(の)二尊を両側に併せらる。春道日晴をもって改めて久城寺の住職となし、弔祭怠ることなく三回忌辰まては光聚院殿等より毎時弔祭料を下附せられ、後、渋江宇右衛門を介して所領五十石を添えらる。
 嗚呼、上人、一旦、冥雲の掩う所となるも、本具の徳望円然欠けず、死後におよび喚発増輝、万代に照れるものあり。その子弟の多き、開祖以来稀に見るところ。而も位疾く大僧正を極わめ夙に宗門の名跡に坐し、皆一世の能をもって称せらるるもの。洵に済々たる多士、何ぞ、それ昌んなるかな。下って滅後二百年、顧みて昔を想ひ今を察すれば、転だ紅涙の袖を霑おすを覚ゆるものなり。
 今や、謹んで上人の略歴を叙し将さに筆を擱かんとするに、莅み感慨一層胸を衝いて措く能わず、野詩一篇を附し聊か望を後昆に維ぐ、と爾か云う。

     法 脈 伝 燈 幾 世 番

     縁 孫 子 弟 国 中 繁

     誰 開 荊 蕀 瞻 淇 澳

     祖 道 復 興 待 後 昆


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     法脈の伝燈、畿世に番(つか)う

     縁孫の子弟、国中に繁(はん)たり

     誰か荊蕀(けいきょく)を開いて淇澳(きおう)を瞻(み)る

     祖道の復興 後昆(こうこん)を待つ


       維時 明治三十六年 初夏日 末弟 惠代 日憙


 筆者、これに付言して云う。莚師は、すなわち中村は十世化主、王沢は十九世である。京の妙顕寺は明暦元(一六五五)年に十七世となり在位十一年、その間に五重塔・七面社を造営す。寛文七(一六六七)年に身延祖山ニ十九世を継承し在位六年、その間、思親閣・祖師堂・拝殿を再建、西谷檀林講堂を建立、上之山に常唱堂・宝塔を建立す。また高祖の真蹟を装改し、他に菩提梯の完成に勤める等、祖山の護持に丹精す。寛文十三年三月、後董を飯高十五世・池上二十世(通師法脈の縁祖となれる)寂遠院玄海日通上人に譲って京都紫野に隠栖するも、延宝七(一六七九)年二月に通師の遷化に会う。その後継をめぐって、飯高檀林能化の一円院日脱を推挙する(飯高檀林の)派と祖山の大事なれば吉例による鬮取りにせよとする(中村檀林の)派との二派の諍いとなる。これが調停、事の始めなり、と。


 十六、法縁結集の師は本圀寺日隆上人なり

  大光山本圀寺第二十祖隆源院春山日隆上人要伝

 縁祖日莚上人の弟子の長者なる隆源院春山日隆上人(一六四○ー九八)は、字を春山と称し、諱を日隆と名づけ、隆源院と号する。この字と院号とは、師の身延山二十九世隆源院日莚上人より授かるところ、本圀寺に晋董するに当り、その意を体して、隆源院日隆と法号する。もって、自ら師の法脈衆会の結集を計り現今の莚師法縁隆源会の基礎を定める。隆師は中村檀林に学び、中村第二十四世の化主を経て、本圀寺求法講院の招請を受けて求法院第十五世の化主となる。上人は本山妙覚寺第三十世を経て、今出川右大臣公規卿より猶子として迎えられ、行学兼備の資徳により大本山本圀寺第二十祖として晋董し、大僧正に任ぜられる。後、常陽侯水戸光圀公の懇請により本山水戸久昌寺に第三世として移り三昧堂檀林に開講する。元禄十一年(一六九八)年三月五日、五十九歳をもって示寂す。
 なお縁祖の莚師には、『遺誡』、『不受不施論記』 一巻、『延山宝物目録』二巻、『一期行業』 一巻、あり。いずれも正本は身延にあり。『身延山御書類聚』二巻は明治四十二年に再版されている。隆師には著作、これなし。祖述を専らとせしなればなり、と云う。

 ーーー 一往の跋(いちおうの おくがき) ーーー

 かくして筆者の云く。わが法縁は祖山久遠寺二十九世の莚上を縁祖として莚師法縁と称し、光山本圀寺二十祖の隆上を給仕第一とする・衆会・結集の師とする。
 両上師弟のエトス(=精神と行動との様式)は、高祖と朗尊との、朗尊・印師と静師との、信心決定・行学二道をもってする給仕第一・師資相承に見る知恩報恩の追孝美徳のそれに擬せられよう。
 私どもの法縁は、これを軌範として紹継し、もって両上の院号をして隆源会(=法水の流源を隆盛ならしめる衆会)と称する。
 私どもは、莚師法縁隆源会にあって本化の眷属となれることを幸甚として、団結し大いなる団円をなして参集しなければならない。
 もって再度、以下に確認しよう。

 すなわち、わが莚師法縁隆源会は、日遠―紀州養珠寺二世中正院日護−日莚と次第するからして、身延二十九世・京都妙顕寺・玉沢妙法華寺歴世隆源院日莚上人を縁祖とし、身延二十二世・池上歴世の遠師を遠源とし、本圀寺隆師を近源とするのである。

 よって、莚師法縁隆源会が重・乾・遠の三師の住持した本山本満寺を縁頭寺とし、重・乾・遠の三師の行学出自の求法講院設営の松葉谷御小庵の霊跡たる大本山本圀寺を心縁中枢の出世寺として現今に及ぶに至れるのは、宗門の歴史伝統にも適合し、法の因縁の然らしむるところでもある、と。

 因みに本満寺開山の玉洞院日秀僧都は、高祖を開祖となし、本圀寺歴祖の朗・印・静・傳を歴祖となして、自らは六世に任じて傳師の師恩に報じている。知恵・報恩こそ妙経の意趣てあり祖書の義趣である。

 ところで民族は、その歴史と言語と文化を失うと、民族としての自由と独立を失い、他民族に支配されて、奴隷となり家畜となりはてる、と云われる。法縁もそうである。
 目下、法縁は懐しの椚の道に寄せる心情、心を同じくしようとする責任、共に法を持とうとする師資(の人倫)などという古くて新しい縁故関係によって、何とか維持されている。しかし過去における本末解体の今日的な結果として、法縁組織には解消か復古か維新か充実かなど、問われるべきことのみ実には多くある。
 よって、いずれにもせよ、祖道法縁の復古維新ないしは充実発展を促進せしめるために、宗門個々人の自覚を深め認識を新たにするためにも、そして当為(ゾルレン)としての法縁の精神(アイデンティティー)と行動の様式(エトス)を展望するためにも、私どもは法縁の歴史と言語と文化とを学習して、その正統性(オーソドキシー)を確認してゆきたい、と願う。もって、しばし擱筆とし、よって、いずれ起筆したい、と恩う。



 ● 平成二十三年正月二十七日は縁祖隆源院日莚上人の第参百参拾遠忌に正当し、私事乍ら五月七日は先考 光山六十三祖沙羅樹院日瑞上人第参拾参回忌に相当たり先妣の第四拾参回忌に当たる。この年、本稿を上梓すること、これ法の因縁然らしむ所か。もって追福修善報恩供養に擬したい、と思う。
著者  伊藤 瑞叡

〔著者・伊藤瑞叡師 略歴〕 札幌瑞玄寺に生まれ遠野北身延智恩寺を経て札幌本龍寺に育つ、東京大学大学院人文科学研究科修士課程(印度哲学)博士課程修了、文学博士、早稲田大学・東京大学・信州大学の講師、立正大学法華経文化研究所長を歴任し、立正大学教授・立正大学大学院文学研究科長・学校法人藤学園慈光幼椎園理事長、仏教思想学会理事長・早稲田大学東洋哲学会理事他を現職とす、札幌本龍寺住職、大本山本圀寺第九十七世加歴・求法講院長、主著に華厳菩薩道の基礎的研究、法華菩薩道の基礎的研究、法華経成立論史−法華経成立の基礎的研究−(平楽寺書店)、三大秘法抄の研究三部作(隆文館)、摂折倫の新研究上下二巻(華林山文庫)、宗教地政学入門(同)、立正安国思想の基礎的新研究三部作(同)、新時代の実践布教学三部作(隆文館)あり、共編に梵文法華経荻原土田本総索引(刊行代表勉誠社)梵文法華経写本集成全十二巻(梵文法華経刊行会)小野梓記念学術賞・日本印度学仏教学会学術賞・坂本日深学術賞・佐倉市教育功労賞・立正大学仏教文化学術賞を受賞す。



 ○ よきひとの きよきみでらにつどいきて えにしひじりの みあとしのべり

 ○ きたのちの やばせがむらにだびせらる まなびひじりの おくづきかなし


伊藤瑞叡先生より、莚師様墓参の砌としてこの二句を頂きました。(平成23年10月27日)



【発刊に寄せて  総 序】

会長 本山本満寺貫首 伊 丹 日 章

 今、宗門は日蓮大聖人御生誕八百年にむけて、『立正安国御題目結縁運動』を展開中にて、今年は第二期の育成の年に入りました。
 人材の育成は檀林の発展によるものてあり、宗門の繁栄は正法の紹継による事は申す迄も有りません。
 大聖人は、『聖人知三世事』に曰く、「日蓮は是れ法華経の行者也。不軽の跡を紹継するの故に、軽毀する人は頭七分に破れ、信ずる者は福を安明に積まん」と。
 大難は四ケ度小難数知れずの忍難慈勝の御弘通の御生涯を遂げられました。私共も先師上人の跡を紹継させて頂き、立正安国と四表静謐に献身し平和な社会作りに貢献しなければなりません。
 本山本満寺は昨年法縁各聖の御協力により創立六百年祭を円成し、創立七百年に向って各聖と共に人材育成に努力しなければと考えて居りました折、法縁の役員より、大本山本圀寺学道(再興)求法講院の講義内容の一部を、平成十八年度より隆源会会報に連載にて御協力を賜っております『法縁の理念と歴史と展望』を、求法講院長伊藤端叡猊下に上梓して頂く事をお願い申し上げました処、心よく御了承を賜りましたので、急遽今年五月開催の第五十七回全国莚師法縁隆源会京都大会と目して刊行させて頂く事にあいなりました。
 重ねて今年は縁祖隆源院日莚聖人の第三百三十遠忌に相当り、今秋には会員各聖と共に秋田に墓参させて頂き、御報告申し上げます予定を致して居ります。
 高祖大聖人の御妙判に「異体同心ならば萬事を成ず」の御教訓を念頭に置て、全国莚師法縁の会員各聖と共に一丸となって、為法為宗、すなわち寺門の興隆、法縁の隆盛、宗門の繁栄、仏国土の現成に精進努力して参りたいと存じます。
 何卒よろしく御指導、御協力の程を衷心よりお願い申し上げる次第てあります。
 もって、発刊の総序とさせて頂きます。
合 掌


【別 序】

 総裁 大本山本圀寺貫首 吉 田 日 厚

 ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず(『方丈記』)。
 その流れにしたがって再興されたのが、将に本圀寺求法講院であり、今日の諸法縁の根源もまたここに存する、と思料いたします。
 今度、日常身辺特に繁忙を極める伊藤瑞叡猊下が鑑みるところあり、莚師法縁隆源会復古改新のためにペンをとられ、広く宗門諸師の参考に供せんにはしかずと、「法縁の理念と歴史と展望」と表題された玉稿を、隆源会として児玉幹事長のもと、編集刊行されることになりました。
 衷心より感謝賛同、敢て拙文を草する次第です。

 時、将に東日本大震災に日本国中が、いや世界全域を含めてゆれ動いている今日、誰しも先ず最初に宗祖日蓮大聖人の『立正安国論』を想起したのではなかったでしょうか。
 大本山本圀寺では昨年より、法華懺法会を復古して、毎年、謗法懺悔の戒行を奉行して立正安国・天下静謐(=世界平和)を国祷を含意して祈念することになりました。
 今、ここで私共、宗門人、いや仏教徒の総て、いわんや正嫡付法の法縁法脈に属する宗徒が、本当に自分の置かれている立場をどう考えているか、昨今、若い僧侶の特に法縁離れ等が云云されておりますが、そのような姿勢が今日の「三離れ」に直結していることに気づくことなくして、インターネットに振り廻されている愚かな自分に気付いてほしいと願うものであります。
 かく言う私も、それに気付いた時には、八十路も過ぎ、すでに末期高齢者になっていたのです……誠に残念この上もありません。
 ですから、若い諸師諸君、特にこの際、法縁に属する諸君に告ぐ! 早く本当の意味の信仰に目覚めよ、と。切に切に願うのです。信心に求心する行・学の道を歩んでほしいのです。
 さもなくば、宗門も、仏教も、日本国も、あったものではない。勿論、その「大河の一滴」にすぎない自分等だが、将しく淀みに浮かぶ泡の如く消え去ること疑いなしだ! と思われます。
 思うに、高祖大聖人の数多くのご遺文・ご消息は、当時の信徒に対する「コミュニケーション」であると拝されます。
 今、私ども宗門人に一番欠如しているのは、その檀信徒に対するコミュニケーションに他ならないのではないか。
 こんなデータがあります。仏教に対する好き嫌いでは、好きが九十パーセント、しかし寺が好きが二十五パーセント。しかも、僧侶の信用度は、なんと十パーセントだ。この結果を、諸君はどうみるか! 慚愧にたえません。
 本書が、私どもが、共に本化の眷属として、法縁の一人として自覚し団結する一助となることを願うものであります。
 今回の伊藤猊下のご法労に対し多謝九拝!!
 もって、別序とします。
合 掌


【要 序】

全国莚師法縁隆源会 幹事長 京都善行院住職 児 王 宜 海


 私共は師資相承の法脈をもって一つのサンガ(僧伽)を形成し、その集団として、高祖大聖人より七百有余年、縁組聖人より三百余年の、歴史を保持して来たが、ともすれば、今風の流れの中に埋没して、先師の苦労や、集団の歴史と成り立を忘れてしまっているのではないか……
 今、世情混乱のこの時こそ、その歴史と形成の基本を再考しなければ、未来への展望が見えてこないのでは、と強く感じる。
 時、恰も縁祖隆源院日莚聖人第参百参拾遠忌に祥るこの時、再び各人それぞれが本書によって、法縁の理念と歴史をふりかえり、未来に対する確固とした展望を持ちたいもの、と考えるものである。
 そして、会員各聖が深い絆を共有し法縁の発展に寄守せられん事を、切に願うものであります。
 もって、要序と致します
合 掌



 縁祖・第参百参拾遠忌報恩法要 廟墓前 秋田団参 各聖の記念写真 (撮影:梅本幸宏)

 ● 本稿は、平成23年(2011)五月七日発行
「法縁の理念と歴史と展望」書籍から、発行元 莚師法縁隆源会本部並びに著者・伊藤瑞叡先生の承諾のもと書籍の一部をWEB版に転載編集したものです。
 平成24年6月15日 責任 小倉 孝昭

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