御遺文

〔伊豆法難〕

一谷入道御書 989 弘長元年、太歳辛酉、五月十三日に御勘気をこうむりて、伊豆の国、伊東の郷というところに流罪せられたりき。兵衛の介、頼朝のながされてありしところなり。
報恩抄 1237 弘長元年辛酉、五月十二日に御勘気をこうむりて、伊豆の国伊東にながされぬ。
波木井殿御書 1927 生年四十、弘長元年辛酉、五月十二日には、伊豆の国、伊東の荘へ配流し、伊東八郎左衛門尉の預かりにて三箇年なり。
船守弥三郎許御書 229 日蓮、去る五月十二日流罪の時、その津につきて候いしに、いまだ名をも、きゝおよびまいらせず候うところに、船よりあがり、くるしみ候いきところに、ねんごろにあたらせ給い候いし事は、いかなる宿習なるらん。過去に法華経の行者にて、わたらせ給えるが、今末法に、ふなもりの弥三郎と生まれかわりて、日蓮をあわれみ給うか。(中略)当地頭の病悩について、祈せい申すべきよし、仰せ候いし間、案にあつかいて候。然れども、一分信仰の心を、日蓮に出だし給えば、法華経へ訴訟とこそ、おもい候え。この時は十羅刹女も、いかでか力をあわせ給わざるべきと思い候て、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、ならびに天照・八幡・大小の神祇等に申して候。定めて評議ありてぞ、しるしをば、あらわし給わん。よも日蓮をば捨てさせ給わじ。いたきと、かゆきとの如く、あてがわせ給わん、と思い候いしに、ついに病悩なおり、海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事、この病悩のゆえなり、さだめて十羅刹女のせめなり。この功徳も夫婦二人の功徳となるべし。



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