御遺文

〔比叡山遊学〕

妙法比丘尼御返事 1553 随分にはしりまわり、十二・十六の年より、三十二に至るまで、二十余年が間、鎌倉・京・叡山・恩城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺、あらあら習い回り候いし程に、
報恩抄 1193 父母・師匠等に随わずして仏法をうかがいし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり、いわゆる倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。この十宗を明師として、一切経の心をしるべし。世間の学者等おもえり、この十の鏡は、みな正直に仏道の道を照せりと。(略)我等凡夫は、いづれの師々なりとも、信ずるならば不足あるべからず。仰ぎてこそ信ずべけれども、日蓮が愚案はれがたし。世間をみるに、おのおの我も我もといえども、国主はただ一人なり。二人となれば、国土をだやかならず、家に二の主あれば、その家必ずやぶる。一切経も又かくのごくや有るらん。何れの経にてもおわせ、一経こそ一切経の大王にておわすらめ。しかるに、十宗七宗まで、おのおの諍論して随わず。国に七人十人の大王ありて、万民おだやかならじ。いかんがせんと、疑うところに、一の願を立つ。我れ八宗十宗に随わじ。天台大師の専ら経文を師として、一代の勝劣をかんがえしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く、「法に依って人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは、仏を除き奉つりて、外の普賢菩薩・文殊師利菩薩ないし上にあぐるところの諸の人師なり。この経に又云く「了義経に依って不了義経に依らざれ」等云云。この経に指すところ、了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の、已・今・当の一切経なり、されば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心をば、しるべきか。



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