御遺文

〔身延離山〕

中務左衛門尉殿御返事 1524 日蓮が下痢、去年十二月三十日事起り、今年六月三日・四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存ずる処に、貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて、今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給うか。地涌の菩薩の、妙法蓮華経の良薬をさづけ給えるかと疑い候なり。
上野殿母尼御前御返事 1896 文永十一年六月十七日、この山に入り候て、今年十二月八日にいたるまで、この山出づる事、一歩も候はず。ただし八年が間、やせやまいと申し、としと申し、としどしに身弱く、心耄候いつるほどに、今年は春より、この病おこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々におとろえ、夜々にまさり候いつるが、この十余日は、すでに、食も殆ど、とゞまりて候上、雪はかさなり、寒はせめ候。身のひゆる事石のごとし。胸のつめたき事氷のごとし。しかるに、この酒温かにさし沸かして、かつかうをはたとくい切て、一度飲みて候えば、火を胸にたくがごとし、湯に入るににたり。汗に垢あらい、しづくに足をすゝぐ。
兵衛志殿御返事 1525 みそおけ一つ給び了んぬ。はらのけ(下痢)はさゑもん殿の御薬になおりて候。又このみそをなめて、いよいよ心ちなおり候いぬ。あわれあわれ今年御つゝがなき事をこそ、法華経に申し上げまいらせ候え。
波木井殿御書 1931 日蓮ひとつ志あり。一七日にして返る様に、安房の国にやりて、旧里を見せばや、と思いて、時に六十一と申す、弘安五年壬午、九月八日、身延山を立ちて、武蔵の国、千束の郷、池上へ著きぬ。



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