御遺文

〔身延奥の院〕

九郎太郎殿御返事 1260 この身延の沢と申す処は、甲斐の国、波木井の郷の内の深山なり。西には七面のがれ、と申す嶽あり。東は天子のたけ、南は鷹取のたけ、北は身延のたけ。四山の中に深き谷あり。箱の底のごとし。
千日尼御返事 1765 その子、藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利を頸に懸け、一千里の山海を経て、甲州波木井、身延山に登りて法華経の道場にこれをおさめ、今年はまた七月一日に身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし。南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。
身延山御書 1915 誠に身延山の栖は、ちはやふる、神もめぐみを垂れ、天下りましますらん。心無き、しずの男しずの女までも心を留めぬべし。哀れを催す秋の暮には草の庵に露深く、ひさしにすだくさゝがにの糸玉を連ぬき、紅葉いつしか色深うして、たえだえに伝う懸樋の水に影を移せば、名にしおう龍田河の水上もかくやと疑われぬ。また後ろには峨峨たる深山そびえて梢に一乗の果を結び、下枝に鳴く蝉の音滋く、前には湯湯たる流水湛えて実相真如の月浮び、無明深重の闇晴て法性の空に雲もなし。かゝる砌なれば、庵の内には昼は終日に一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜、要文誦持の声のみす。伝え聞く釈尊の住み給いけん鷲峰を我が朝この砌に移し置きぬ。
光日房御書 1155 鎌倉へ帰り入る身なれば、また錦を着るへんもや、あらんずらん。その時、父母の墓をも見よかしと、ふかく思うゆえに、いまに生国へはいたらねども、さすがこいしくて、吹く風立つ雲までも、東の方と申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立ちてみるなり。



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