御遺文

〔鎌倉幕府との対面〕

撰時抄 1053 文永十一年四月八日、左衛門尉に語って云く、王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるようなりとも、心をば随えられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑いなし。殊に真言宗がこの国土の大なるわざわいにては候なり。大蒙古を調伏せんこと、真言師には仰せ付けらるべからず、もし大事を真言師調伏するならばいよいよいそいでこの国ほろぶべし、と申せしかば頼綱問て云く、いつごろかよせ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみえ候わねども、天の御けしきいかりすくなからず急に見えて候、よも今年はすごし候わじと語りたりき。
光日房御書 1155 文永十一年二月十四日の御赦免状、同じく三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立ちて真浦という津におりて、十四日はかの津にとどまり、同じき十五日に越後の寺泊の津につくべきが、大風にはなたれ、幸いにふつかぢ(二日程)をすぎて、柏崎につきて、次の日は国府につき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入りぬ。同じき四月八日に平の左衛門尉に見参す。本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用いなくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆえに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。
富木殿御書 809 飢渇申すばかりなし。米一合も売らず。餓死しぬべし。この御房たちもみなかえして、ただ一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給え。十二日酒匂、十三日竹ノ下、十四日車返、十五日大宮、十六日南部、十七日このところ。未だ定まらずといえども大旨は、この山中心中に叶いて候えば、しばらくは候わんずらん。結句は一人になて日本国に流浪すべき身にて候。又たちとどまる身ならば見參に入り候べし。恐々謹言



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