八月の随想


ひまわり




 身も心も、因縁によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常なものである。

 もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

 王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにする事ができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとして我が身については思うようになるものはない。

 それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

 もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。

 この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。

 無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者は誰でもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、誰でも苦しみであると答えるに違いない。
 
 このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

 心もまた、そのように、無常であり、苦しみでり、実体ではない。

 だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我とかわがものとかという観念を離れたものである。

 知慧の無い心が、我である。わがものであると執着するにすぎない。

 身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

 流れる水のように、また燈火のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

 智慧のあるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。


仏教聖典〈人の心とありのままの姿・変わりゆくものに実体がない〉より




月の初めには、新たな絵を更新してまいります。 住職   合掌