歴史 |
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秋田県に最初に日蓮の教えが伝播されたのは、室町時代・文亀2年(1502)土崎湊に京都本満寺塔中・玉持院の久遠院日尋上人が法華寺を創建したことにはじまる。
3年後の永正2年(1505)やはり土崎湊に顕乗山久城寺が権大僧都・日有上人により創建された。
久城寺由緒によると、日有は「下之総州正中山中山7代嗣法」とあり、下総(千葉県)の中山・法華経寺の7世であったことが知られるが、示寂したのは文安5年(1448)で、久城寺の創建より早い。従って久城寺の2世の日領が、師の日有を開祖に勧請したものと推測される。久城寺は法華寺・伝法寺とともに、京都本満寺の末寺にあたる。
江戸時代に入り、幕府の新寺建立の禁令にもかかわらず、多くの日蓮宗寺院が久保田藩の領内に建てられた。
慶長7年(1602)常陸から久保田(秋田)に移封された佐竹義宣は、慶長から元和にかけ、旧城下・土崎湊にあった法華寺、久城寺、伝法寺、本妙寺の四ヶ寺を久保田城下の寺町(現在地)に配し、それぞれに中本寺の寺格を与えている。
中本寺とは、末寺をもつ本寺のことで、当時は、支配権が強かった。
旧藩時代、当久城寺の末寺には、八橋の宝塔寺、土崎の見性寺、実城院、船越の堯林院、阿仁の法華寺があり、久保田藩内では最も末寺を多く有した。
久城寺の歴史で、特筆されることは、総本山身延山久遠寺の29世・隆源院日莚上人との関係である。
徳川実紀によると、延宝7年(1679)10月に日蓮宗の総本山、身延山久遠寺の住職継承問題で、同寺の29世日莚上人が久保田藩主、佐竹義処にお預けになったという。
日莚は「矢橋不動庵日莚尊師御廟所並庵室縁起」(久城寺蔵)「諸檀林並親師法縁録」によると隆源院と号し、春山と称した。
京都、七織屋に生まれ、18歳にて下総の正東檀林(学問所)に入り、宗学を研鑚すること十余年に及んだという。30歳にて関東三檀林の一つ、小西学堂の11世の化主となった。のち、正東檀林に移って10世の講主となり、経蔵を建立、玉沢の妙法華寺に招かれて19世を継いだ。
日莚は、さらに明暦元年(1655)12月に48歳で京都・妙顕寺(日蓮宗大本山)に出世し、17世となっている。妙顕寺に住山すること11年、在任中、五重塔や七面社などを造営した。日莚が身延山久遠寺(総本山)に昇住したのは、寛文7年(1667)59歳のことであった。
身延山は言うまでもなく、宗祖日蓮聖人の開創した根本道場であり、ここに住山することは日蓮宗の者にとって最高の栄誉であった。
日莚は、身延山に住すること6年、この間に円光庵・丈六宝塔・常題目堂。奥之院・祖師堂などを造営し、総本山の興隆に尽くした
寛文12年(1672)3月に64歳で後席を日通に譲り、京都の紫野に隠居し、風月を友としている。
しかし、隠居した日莚にとって厄介な問題がもち上がった。
というのは、延宝7年(1679)2月に身延山30世の日通が逝去し、その後席をめぐり宗門が二派に分かれて対決したのである。
日通の遺言を守って日脱を後任にしようとする意見と、仏前で公平にくじ引きで後任を決めようとする意見とに分かれたが、日莚は後者の側に擁立され、幕府に訴訟した。
しかし、幕府は、日脱を身延山31世と認め、日莚はじめ反対側の関係者一同の訴えは非義であるとして重く処分したのであった。
特に日莚は、隠居した身の所行に似つかわしくないとして、幕府から久保田藩主・佐竹義処にお預けになったのである。
日莚が、71歳の老体をもって久保田(秋田)城下に到着したのは、延宝7年(1679)10月24日のことであった。
弟子の随従は幕府の老中・大久保加賀守が許さなかったという。
しかし、間もなく師匠日莚の後を追って江戸から善行院、日晴、春芸、恵忍の四人の弟子が久保田に来て寺町の久城寺の境内に庵居し、ひそかに師、日莚を看護したという。日莚は、延宝9年(1681)正月27日、73歳で臨終した。
日莚のすぐれた門下には83人がいたといわれ、特に京都本圀寺の日隆・妙顕寺の日利・小倉山の日現などは傑出していたという
これらの門下は、師の死を聞いて遠く久保田まで集まり、久城寺で盛大に葬儀を営んだという。
日莚の遺体は八橋の不動山(宝塔寺)で火葬にされ、遺骨は身延山・玉沢の妙法華寺・京都の妙顕寺・小西檀林・中山檀林の五ケ所に分骨された。
また、久保田城下の久城寺には、御霊屋が建てられ、日莚の遺体を荼毘にした八橋の不動山には、石塔が建立された。
師の後を追って江戸から秋田まで来た日晴は、久城寺の11世を継いで師の御霊屋を守り、また、恵恩は、宝塔寺の境内の不動庵に住して日莚の石塔を守ったという美しい師弟愛の物語である。
日莚は、世を去る前に藩主佐竹義処から与えられた佐竹家及び岩城家の法名帳二巻を日晴に回向することを命じている。日晴は
日莚の没後、御霊屋の守護職として久城寺の後住を申し渡され、久城寺の11世として法華経の教えを弘通し、藩主・佐竹義処の帰依を受けた。
師の三回忌には、同門と相謀って八橋の六処庵(現在の宝塔寺境内)に石造の五重塔を建立している。
久城寺が、久保田藩の日蓮宗の総録(触頭)をつとめたのは、日莚上人との関係によるものらしい。
元禄4年(1691)久城寺は、日晴の願いによって、永代聖人号を許された。
永代聖人号というのは、歴代の住持が聖人(上人)号を世襲することである。
日晴は、このように久城寺の寺門を興隆させたので、同寺の中興と称された。日晴が遷化したのは、享保11年3月23日のことであった。世壽75歳。
江戸時代初期の名僧として、この他当久城寺の6世・本行院日元上人がいる。日元は、元和元年(1615)阿仁に法華寺を開創。
その他、
13世の天心院日通上人は京都鷹峰の檀林の能化(学頭)をつとめた。
14世・週遍院日徳上人は水戸の三昧堂檀林の24世化主。
15世・覚了院日迂上人は水戸の三昧堂檀林の能化53世。
16世・顕義院日解上人は水戸の三昧堂檀林の93世能化。
17世・了善院日浄上人は水戸の三昧堂檀林の133世化主。
21世・平等院日慧上人は水戸の三昧堂檀林の156世能化。
24世・究竟院日等上人は水戸の三昧堂檀林の257世、261世化主。
このように、久城寺の世代のほとんどが日蓮宗の能化となっていることは、注目に値する。
明治から大正にかけては、28世瑞雲院日潤上人(大正6年4月寂)も名僧の一人にうたわれているが、明治初年の廃仏毀釈(仏教を排斥し、釈尊の教えや仏像などを壊し、捨てようという運動)や、神道が国教に定められたことにより、天照大神などの神さまを仏さま以上に崇拝することを強要される破目になり、その上、日蓮宗の加持祈祷も禁止されるなど、わが日蓮宗にとって誠に厳しい受難の時代があった。
また、明治5年(1872)に僧侶の「肉食妻帯蓄髪の禁令」が解除されて以来、僧侶の地位、生活に対する社会通念に変化を及ぼした。
現在は、僧侶各々が宗祖の本門戒の精神を守り、固い信念で妙法弘通を中心とした伝道布教の宗教活動を展開している。
現住・小倉孝昭(日孝)は師父31世・蓮昭院日雄上人の後を継ぎ、第32世として、開創520年の法灯を継承している。
顕乗山 久城寺歴世
歴 代 | 法号 | 寂年 | 追 記 | 世壽 | 西暦 |
開山 | 権大僧都 日有上人 | 天正2年6月6日 | 1574 | ||
第2世 | 日 領 大 徳 | 2月8日 | |||
第3世 | 日 長 大 徳 | 2月1日 | |||
第4世 | 日 賀 大 徳 | 5月27日 | |||
第5世 | 日 壽 大 徳 | 12月27日 | |||
第6世 | 本行院日元上人 | 寛永10年8月25日 | 1634 | ||
第7世 | 中道院日憲大徳 | 延宝5年10月8日 | 101 | 1677 | |
第8世 | 観修院日念大徳 | 2月24日 | |||
第9世 | 高雲院日週上人 | 元禄14年8月23日 | 1701 | ||
第10世 | 了傳院日受上人 | 12月26日 | |||
第11世 | 智雲院日晴上人 | 享保11年3月23日 | 身延29世日莚上人弟子 | 75 | 1726 |
第12世 | 智明院日達上人 | 元禄15年11月14日 | 1702 | ||
第13世 | 天心院日通上人 | 享保18年7月17日 | 1733 | ||
第14世 | 周遍院日徳上人 | 宝暦7年6月14日 | 1757 | ||
第15世 | 覚了院日迂上人 | 明和4年7月3日 | 三昧堂53世 | 1768 | |
第16世 | 顕義院日解上人 | 寛政8年10月8日 | 三昧堂92世 | 1796 | |
第17世 | 了善院日浄上人 | 享和2年3月26日 | 三昧堂133世 | 1802 | |
第18世 | 住妙院日通上人 | 安永6年5月10日 | 1777 | ||
第19世 | 教善院日證上人 | 文化6年2月16日 | 水戸玄能 | 1809 | |
第20世 | 顕壽院日量上人 | 文化9年2月11日 | 水戸玄能 | 1812 | |
第21世 | 平等院日慧上人 | 天保10年8月20日 | 三昧堂156世 | 75 | 1841 |
第22世 | 大行院日修上人 | 天保12年1月4日 | 水戸玄講 傳法寺より入寺 | 1843 | |
第23世 | 貞善院日心上人 | 嘉永元年4月19日 | 正法寺14世より入寺 | 1848 | |
第24世 | 究竟院日等上人 | 明治5年2月1日 | 三昧堂261世 覚善寺より入寺 | 1870 | |
第25世 | 慈眼院日明上人 | 明治23年12月28日 | 水戸化主 覚善寺にて化 | 1890 | |
第26世 | 竟明院日運上人 | 明治13年1月12日 | 傳法寺24世より入寺 | 1880 | |
第27世 | 無学院日榮上人 | 昭和5年11月15日 | 塚原一要師 傳法寺より入寺 | 85 | 1930 |
第28世 | 瑞雲院日潤上人 | 大正6年4月14日 | 須田日潤師 妙慶寺より入寺 | 78 | 1917 |
第29世 | 眞亮院日靆上人 | 昭和6年10月16日 | 佐藤眞亮師 瑞雲院弟子 | 65 | 1931 |
第30世 | 蓮中院日温上人 | 昭和15年4月29日 | 柴田寛栗師 兼務3年本澄寺化 | 1940 | |
第31世 | 蓮昭院日雄上人 | 昭和50年7月20日 | 小倉春雄師 眞亮院弟子 | 68 | 1975 |
第32世 | 蓮乗院日孝 | 現 住 職 | |||
蓮啓院日法 | 現住職修徒 | ||||
八橋墓地に御廟 | |||||
久城寺境内に御廟 |
久城寺 八橋歴代墓地 身延山第29世・隆源院日莚上人御廟へ参拝 〜副住職 知法の長男 朋星(小4) 次男 朋陽(4才) お墓経デビュー〜 令和2年(2020) 8月6日 |
立教開宗七百五十年慶讃
宗祖日蓮大聖人第七百二十三遠忌御会式
久城寺開創五百年報恩音楽大法要
平成16年10月16日、秋田市内 十ヶ寺 寺院住職にご出仕を仰ぎ、檀信徒130名囲繞のもと、標記報恩法要を厳修しました。合わせ記念誌を発行、時を経て平成24年9月5日、山形県米沢市・善立寺ご住職 鈴木大道師に記念誌をスキャンしてPDFファイルを作って戴きました。ここに掲載いたします。
開創五百年・記念誌(PDFファイル 31,8MB)) 119MB版PDFファイル 平成16年10月16日 発行 企画・発行 顕乗山 久城寺 デザイン・印刷 株式会社 販 促 |