講話資料(レジメ) 平成18年10月27日


『立正安国論』の主張と帰結」


上田 本昌


◇先ず、日蓮聖人の正統な理解から始めよう。
 一般にともすると聖人のことを「他宗を盛んに批判し、折伏ばかりしていた僧」であるかのごとく思いこみ、排他性の強い独善者のように考えている人々が多い。他宗の信者にいわせると、「だから日蓮さんは好きになれない。」という。その代表的な著作が『立正安国論』であるとみなされている。

◇たしかに聖人は、破邪顕正の折伏もされたが、むやみに折伏だけを行い他宗攻撃にのみ専念されたわけではない。

◇そもそも『立正安国論』で法然上人の『選択集』を批判したが、それもいきなり一方的に折伏したわけではない。『安国論』を忠実に拝読すればすぐわかることであるが、最初に法華経を中心とする諸経・諸宗を「捨てよ」といってきたのは『選択集』の方が先であり、法然上人の主張であったのである。

◇即ち、濁悪の世では、法華経を中心とする聖道門の教えでは救われない。「千人中一人も成仏できない。」だからこれを「捨てろ、閉じろ、閣け、抛て」といって諸経をことごとく捨てさせることを主張したのである。

◇今の世の人々は、此の娑婆では仏になれない。浄土の三部経により、阿弥陀如来の本願力によって西方十万億土の彼方にある極楽浄土へ往生して、そこで成仏するしか方法がない。「百人が百人成仏出来る浄土教」へ帰依すべし。「念仏を唱えることを正行と云い、他の諸経を唱え信仰することを雑行という。」「すべからく正行に帰依し、雑行を捨てろ。」といって、諸経を否定したのは法然上人の方が先であり、徹底して念仏以外の教えを閉じろ、閣け、抛てと排他の説を強調したのであった。

◇そこで日蓮聖人は、こうした独善的な排他の『選択集』を批判し、そのあやまりを改善しようと思われたのであった。「汝速く信仰の寸心を改めよ。」といわれたが、「改めさせる」ための教えである。「改める」ということは、間違った信仰を正当な信仰に改正することである。

◇本来、念仏にしても、禅・真言・律にしても、その他の教えは、周知の如く、仏が「実乗の一善」たる法華経へ導入するための手だてとして説かれた教えであり、それなりの意義はある。然しそれは、あくまで導入のための手段として説かれた法門である。法華経が説かれるまでは、それぞれに意味があったのである。だが、法華経が説かれたあとは、「出世の本懐」たる実乗の一善にすべて開会され、統一されることになるのである。(太陽が出るまでは月をたよりにするが如く、無数の星を仰ぐが如くである。月といえ星といえども、皆太陽の光によって輝いている如くである。)一番の基本となる教えを忘れてはならない。

◇さて、『安国論』では、「改めよ」と呼びかけている。法然上人の如く「捨・閉・閣・抛」とは言っていない。

◇聖人はあくまで法華経に中心を置いていたが、だからといって諸経を全部無視したわけではない。

◇その証拠には『安国論』の中に大集経・仁王経・金光明経・涅槃経等の諸経を引用し、仏説として論証していることでも明白であろう。

◇ただし「念仏にこだわり」「禅以外は仏教でない」「真言のみに限る」といった権経に片寄った信仰に走ってしまい、手段として説かれた経典にこだわってしまうと無間地獄に堕ち、天魔の所業となってしまうことを警告されたのであった。(月や星にこだわり、太陽を忘れてしまってはならない。)

◇このように『安国論』では、先に法華経や諸経を捨てろといって攻撃をかけてきた法然上人に対し、その間違いを反論し改正を求めた書である。決して聖人が一方的に『選択集』を批判したわけではないことを、わが宗門ではもっと声を大にして主張し、世人の誤解をなくすべきである。

◇『安国論』を正しく理解し、聖人の真意をくみ取るべきであろう。そのためにも『安国論』の著述された当時の時代背景を理解すべきである。

◇政治・経済の混乱、幕府の専横、承久の乱。

◇天変地夭、不安と苦難、生きる望みを失う。

◇当時の宗教界、極楽浄土往生、厭離穢土、現実否定

◇「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。」という世相。善神捨国。

◇正常性、正義の亡失。混乱した世相。まさしく亡国の相を現す。生きながら地獄の相。

◇「世皆正に従い、人悉く悪をしりぞける。」という世にしなくては安国とはならない。

◇即ち正法たる実乗の一善の法華経に帰依することにより、「三界は仏国」となり「十方は宝土」となる。これは「娑婆即寂光」である。

◇よって「身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。」となる。これは「即身成仏」ということであり、「立正安国」ということになる。

◇要するに聖人は、法然上人の念仏一辺倒の傾った信仰を改めさせることにより、法華真実の立場から、諸経の立場を開会し、それなりの意義を認めつつ、引用しながら法華一乗に帰入せしめたのであった。決して聖人の方から先に、念仏批判をやみくもにしかけたわけではない。

◇とかく聖人の勇壮闊達な生涯から、荒法師のような強烈な折伏僧だけの生き方をしたように考えられていることは改正されなくてはならない。

◇もちろん破邪顕正の折伏としての強い一面もあったのであるが、「それだけ」ではなく、信謗共に開会し、十界の皆成を目標とされ、「仏界所具の九界」として本有の尊形を、それぞれに発揮させようとされたのであった。自他共に成仏。それが立正安国である。

◇釈尊は、周知の如く「待機説法」であり、「応病与薬」であった。数多くの教典として残っている。しかし、最後は実乗の一善たる是好良薬の法華経により、十界皆成の大理想を説かれている。

◇日蓮聖人も又、「待機説法」であった。方便を充分に活用されている。『安国論』だけでなく、祖書の随所に諸経や論文、歴史書、文学書等広く引用されている。

◇これは、一仏乗に誘引するための手段方法として、他経典や論文を認めて引用しているのであり、それぞれの立場を理解されている。

◇つまり、法華経へ導入するためのプロセスに於いて、諸経、天台−伝教を始めとして、他人の説を認めているのである。

◇したがって、あくまでも中心は一仏乗であり、大白牛車でなくてはならない。そのためには羊・鹿・牛車も必要とすることがあるのである。法然上人のように、すべて他経典を「捨ろ」というのではない。

◇色々な衆生と対話し、誘引して火宅から救った長者の如く、時には「応病与薬」としての諸乗も必用となることがあるであろう。

◇ただし、方便としての諸乗にこだわってしまうと、逆に無間地獄となることを忘れてはならない。諸乗は、一仏乗となって始めて意義が出てくるのである。

◇改めて言うまでもなく、折伏はあくまで「狂子」を治せんとするためのショック療法である。間違った信仰から目覚めさせることである。正気を取り戻すための手段であって、折伏することが目的ではない。

◇すでに正気を取り戻した時は「是好良薬」たる妙法に帰入せしめるのみである。

◇この正気を取り戻して、「是好良薬」を口に服せしめることにより、「身は是れ安全」にして「心はこれ禅定ならん。」となる。このことが即ち「立正安国」ということである。

◇日蓮聖人の弟子や檀越は、ほとんどが皆、初めは他宗を信じていた人達ばかりであった。時に折伏し、摂受を用いて、問答や対話を重ねて改宗させている。それがいつの間にか、一方的に他宗の悪口ばかりを言っていたかの如くに誤解されていることは、この際、全排しなくてはならない。

◇真に『安国論』を読み直し、聖人の立正安国の精神をくみ取って行くべきである。

◇法華開会の法門によって十界皆成・一天四海皆帰妙法の大理想を実現すべく、すべての人々を結縁すべきである。

◇宗門の新運動もそこに目的があり、同時に帰結でもある。

◇縁無き衆生を、いかに「縁ある衆生」にして行くかが「結縁運動」である。

◇布教師は自分の生活・信仰の範囲内だけでの理解と解釈しか出来ないのでは、不十分である。広い視野と未信徒の心を読み取らなくてはならない。

◇そのためには数多くの未信徒の心に触れて、相手の立場や考え方を知った上で、待機説法を、試みることであろう。

◇本宗の檀信徒を対象とした時と、未信徒を相手とした時とでは、当然のことながら布教の方法に種別があることを再認識されるべきであろう。


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