平成11年度仏教文化公開講座  「現代に法華経を読む」
大阪府池田市 本養寺住職  難波宏正上人
プロフィ-ルS32年生れ
立正大学・大学院修士過程終了(宗学専攻) ・求道同願会常任委員・法華会評議委員等
湯川日淳・久保田正文・藤井日達の各師に師事
小著「止ミネ善男子」・「本化信行論」・「末法下種論」・「唱題の理念」 「法華経の有り難さ」・「楽しい人生・上手な臨終」・「我が師・我が道」

 
講演
「現代に法華経を読む」(三品経シリーズ・その1「方便品」)
                      
(挨拶)
只今過分なるご紹介を賜りました大阪の本養寺というお寺から参りました難波宏正と申します。
今年の春でしたか、東京で小倉上人とお目に掛りました時に「一つ東北に来て法華経の話をしてみないか」と言うお誘いを頂きまして、まあ、その時は多分実現しないだろう、酒の上の話だろうと思って「ハイ、ハイ」と返事をしておりましたら、どうやら本気であったらしくて、先般、電話を頂きまして「是非ともこれを実現したいから来るように」と言うようなお誘いでございました。

秋田県と言う所にはあまり私もご縁がございませんで、まあ、お招きを頂いたと言うことは、初めてご縁が出来たわけでありますから、「喜んで参りましょう」と言うことで、日曜日の法事をキャンセルしてこちらの方を優先して参ったようなことでございます。

今ご紹介にもありましたように、総合テーマが「法華経を現代に読む」と言うことに定められておるようでございます。そこで、日蓮宗でも大事な御経として、皆さんもよくお勤めの時に拝読されますところの、方便品第二とそれからもう一つは寿量品第十六、さらにもう一つ加えれば神力品第二十一という。これは俗に宗門の方では三品経と申しておりましてね、方便品と寿量品と神力品、この三つの大黒柱、この骨格を正しく理解できれば法華経全体を理解したと同様であると、日蓮聖人の教義というものも理解することが可能であると言うところから、昔からこの三品経を尊んできたわけでございます。

折角やるんであるから、三ヶ年に分けて「先ず初年度は方便品についての話をせよと、明年は寿量品だと、そして最後の結びは神力品でやりなさい」という仰せでございます。

まあ、非常に有り難い企画だと考えまして、快くお引き受けをさせていただいたようなことでございます。
秋田県と申しますと東北ですからね、もっと涼しいのかと思って私も期待しておったんですけれども、今日花巻空港に降りたんですが、あの蒸し暑いこと大阪と余り変わらなかっですね。で、まあ伊丹空港十時の飛行機に乗りまして十一時半にはもう花巻に着いておったんですけれども、大阪から花巻に来る時間よりも、花巻から此処へ来る方が時間がかかったような気がいたします。まあ、でも、これも高速道路が開通したお陰だと言うことで、地道を走っておれれば何時になるかなあと言うくらいの距離があるかと感じました。

まあ、今日こちらにお参りさせて頂きまして、これから、話をさせて頂きますけど、皆さん方、もしね、途中で退屈になったらご遠慮なくお休み頂いて結構です。今日私が与えられましたテーマはね、漫談とか笑い噺で済むようなテーマでございませんで、日蓮聖人の門下にとりましては、非常に大切な法門をですね、これからお話申し上げたいと思いますので、まあ、でも、出来るだけ堅苦しい話にならんようにとは心がけますけれども、途中で睡魔が襲うというようなことがありましたら、どうぞお静かにお休み頂きたいと思います。只まあ、横になられますと周りの方に迷惑になりますから、座ったままで、禅宗の方では坐眠と言うのがございましてね、坐禅をしたまま眠るという修行があるようでございますから、もし眠くなったら坐眠をしていただいて結構でございます。ですからあまり堅苦しい雰囲気でなくして、リラックスしてですね、足の痛さに気を取られることの無いように、最初から足を崩して頂いて、耳と目だけこちらの方に貸していただければ、有り難いかなあと思います。

古来よりですね、この法華経の説法の会座に集まる時には、たとえ居眠りをして、寝ておりましても、その法門が耳から入らずとも、普通説法は、私は口で話し、皆様は耳で聞くものですから聞法と言うんですけれどもね、この説法が耳から入らずとも毛穴より入りてと申しますから、皆さん方の毛穴から法門が入って行くんだというですね。「法門は毛孔より入りて、遠く菩提の縁とならん。」今、今日此処で聞いて帰った話をですね、すぐに家に帰って家族の方や周りの方に取り次ぐことが出来ればそれは満点でしょうけれども、そうもいかない。まともに起きて聞いておっても半分も持って帰れない。まして寝ておれば殆ど入らない。けれどもそれは毛穴から入るんだと仏様も仰ってる。すぐに役に立たなくとも、今日私が此処でお話を申し上げると言うことは仏様になる種を播くわけだから、皆様方の心の田圃に種が宿るんですね。その宿った種が、今日すぐ芽を吹く人もあれば、三年後に芽を吹く人もあるし、又或いは、間に合わずにあの世で芽を出す人もある。これは仕方がない。その人の因縁によります。けれども播いた種が正しいものであれば必ずそれは芽を出して美しい花を咲かせる時が来る。そのことをお祖師様は、或いは仏様は遠く菩提の縁とならん。すぐに役にたたんでもいいよ。聞いた話が全部理解出来なくともいいよ。必ず何処かでそのことに気づくことがあるから、お説法と言うものはそう言うものだよというふうに仰っていますから、まあ、そんなことを考えましてね、あのう、退屈になったらお休み下さいと安心して申し上げてるようなことでございます。与えられました時間にも制約がございますんでね、余り前置きばかりしておりますと本論に入れません。いつも最後時間が無くて自分で悔しい思いをするんでこれから、本論に入って参りたいと思います。


(法華経の読み方)
この「法華経を現代に読む」と言うことでございますが、法華経の読み方には様々な読み方がございます。例えば創価学会の方の読む法華経の読み方もあれば、霊友会の読み方もある。或いは天台宗の方、或いは禅宗の方、様々な方が法華経に縁を持って、この長い歴史の中で親しまれて来ておるわけですね。私共がこれから学ぼうといたします法華経は誰が読んでも良い法華経だと言うことでなくして、これは「日蓮大聖人ご自身が信解体得された法華経だ」と言う一つの枠組みがあります。信解体得というのは大聖人ご自身がお釈迦様のお言葉を信じて掛られたという事が第一。これが「信」ですね。お祖師様はお釈迦様のお言葉に万に一つも偽りは無いと言うことを徹底して信じたお方であります。まず日蓮大聖人によって信じ込まれたところの法華経。そして、その法華経の中身を日蓮聖人が理解されたという事が第二。これを合わせて「信解」という。解といのは理解の解と書きますね。信解というのはそう言う事。仏様のお言葉を信じて尚かつこれを理解する事が大切です。

ですから皆さん、お経は信ずるだけでは駄目なんです。お経は信じて理解するように勤めねばなりません。努力をせねばなりません。何となればお釈迦様は私共にこの法華経というものを解らせてやろうと言うお計らい、熱意の下にお経を説いて下さったんでしょう。仏様が解らせたいという思いを込めて説かれたお経を、此方が解らんでも結構です。と言って理解を拒むと言うことはね、これは仏様に対して第一無礼な行為でございますね。仏様が「皆さんに別に解ってもらわんでもいい」と思われたら、お経は初めからお説きにならなかった。お経をお説きになったと言うことは、解ってもらいたいと言う熱き心があったからでしょう。先ず私共は、それを信ずるのみならずこれを理解しよう、仏様が何を仰ろうとしたかと言うことを少しでも頂こう、学んでみよう、聞いてみようと言う、そう言う気持ちを持つことが大事ですね。それを「求道心」と言うんですよ。道を求める心。道を求める心を失った時に、仏法は「万事休す」であります。如何に立派な仏様が居られて、如何に立派な教典がありましても、それを求めて理解しようと言う気持ちがなければ仏法は衆生を利益いたしません。

ですから、私共は先ずこのお釈迦様の説かれたお経の中身を理解しようとする志を立てることが大事でございますね。そして、その信じて理解した法華経を日蓮大聖人が自ら、今度はこれを生活の上で実践してみて、法華経を実際に行動の上に読んでみて、口で読む、目で読むばかりでなく、頭で読む、心で読むばかりでなく、体で読んでみる。体で読むと言うことは日常生活を法華経の如くにしていると言うことなんですよ。よく法華経を色読するとか、実践するというとね、皆さんは自分の生活は自分の生活としてあるんだけれども、その中に都合のいい所だけを取り入れて法華経を身に読んだとおっしゃる方がいるんですね。自分にとって耳障りの良い法華経。耳障りの良い箇所だけを引っ張り込んできて、自分の生活の中に法華経を取り入れるという生き方をする人がいる。これは日蓮聖人的生き方ではない。「日蓮大聖人の法華経の読み方というものは、自分の生活の中に法華経を取り入れるんでなくて、法華経の教えの中に自分の生活を投入していく。法華経の要請された通りの生き方をする。」つまり自らの人生観というもの、価値観というものが全て法華経の中に解き示されて居る。その通りに生きる。それが、「如説修行」と言うんですね。説の如くに修行する。お釈迦様の説の如くに行じてみる。これが法華経の色読であります。体得と言うことであります。

ですからその中にはお釈迦様のお言葉といえども、耳に痛い話もありましょうし、それが良いと解っていても、そんなことをしたら損をするじゃないかと思う心が出てくるのが、我々凡夫なんですね。法華経のお勉強は幾ら頭でしましてもね、頭で理解しましても、成る程こうだと言うことが解っても、首から上は人間は善悪で物を考えることが出来るんです。首から上はね。何が良いことで何が悪いことか解る。解っているんだけれども、実際行動に移すときは首から下の我々は善悪ではなくして、損得で動くんですよね。良いことだと解っていてもこれをすれば損をするじゃないかと思えば見て見ぬ振りをする。聞いて聞かぬ振りをする。ところが逆に悪いことだと知りながら、これをやれば罰が当たるなあと言うことを心の何処かに感じながらも、いいや、誰も見てなければ、バレなければいいんでしょう。悪いことをする前から言い訳を考えてする。こういう子供がこの頃いますね。学校の先生に見つかって叱られると、すぐに言い訳言う。捕まることを想定して最初から言い訳を考えるという生き方がありますけれども、悪いと知りながらも、儲かる、得すると考えるとやってしまう。これが悲しいかな私共凡夫の現実、現状だと言わざるを得ませんね。頭の中で判断できた善悪がいつの間にか身体だが行動するときは損得で動いて居る。だから良く解ってるんですよと言ったところで、じゃ、その通りの行いが我々に出来るかと言えば殆ど出来ないと言わざるを得ない。それは身体で覚え込んでないからだと言うんですね。

例えばわかりやすい例で言えば、電車の中で座って居るときに体の不自由な方やお年寄り、或いはお腹の大きなご婦人が入ってきたら、今、頭の中では席を譲ってあげばならないなと解るんですよ。解るんだけれども、このタイミングを見るのが難しいのと、もう一つは自分も一本電車を見送ってやっと並んで座ったんだからいいや、見て、見ぬ振りをしようと言って寝た振りをする。でも、気持ちの中でどうしようこうしようと思ってるうちに、隣の人がすっと席を立ってお婆さんが座った。何だか、ばつが悪いのね、後味が悪い。だから頭で解っているんだったら行動すれば良いんだけれども出来ない自分が居るんですね。ところが身体で解っている人は条件反射として、そういう方が来られたらすっ席を笑顔で譲れるようになる。それは身体に覚え込ますと言うことが如何に大事がと言うことですね。

昔、(私は勿論、さっき紹介がありましたように昭和32年生まれだから太平洋戦争知りません。湾岸戦争ぐらいは知っておりますけれども、太平洋戦争知りません。)その第二次世界大戦の頃にですね、学徒動員ですとか、或いは何か学生が戦地へ行かねばならないような事ありました時に、毎日毎日来る日も来る日も、鉄砲で大きな的を撃つ練習をすると言うんですね。最初は的を打ち抜くことは難しいんでしょうけれど、同じ事を毎日毎日繰り返しておりますとね、もう片目をつぶっていても的に当たるように成るんですね。その時にですね、その初年兵の人がですね、先輩にですよ、(まあ、私は軍隊の仕組みを知りませんけど、あの、物が言える間柄の、先輩に対して、)「もうこんな初歩的な訓練は飽きたと、余り面白くないから、一寸実践練習をさせて貰えないか」と言う事を言ったそうでございます。その時にその先輩曰く「君達は今これが練習だと割り切って安心して居るから、的を射ることが出来るんだよ。もし、これが実践ともなれば悠長に構えて居る間に、向こうから弾が飛んできて此方が殺されるもか知れない。或いは不幸にして先に弾が飛んできて足を撃たれて怪我をして居るかも知れん。その激痛と恐怖心の中で、意識朦朧とした中でも、相手を射止めることが出来るかどうかと言うことは、これは今のお稽古をしておるだけでは駄目なんだ。頭で解ることと身体で解る事は違うんだ。これは意識が朦朧とした中でも確実に相手を撃つことが出来るというのは、身体の中に覚え込ませる訓練が必要なんだ。その訓練は基本から始まる。その基本を繰り返し繰り返し同じ事を何日も何日も繰り返す中でその鉄砲の扱い方を、身体でやっと覚えることが出来る。その時初めて実践で役に立つんだ。だからこの訓練は割愛するわけにいかない。」と言って、先輩が説明したそうでありますが、私達の仏道修行も一緒なんですよ。

お仏壇の前で、御宝前でお経を読んだり、お題目を唱えたり。こんなこと幾ら繰り返しても、余り目に見えた御利益もなさそうだし、退屈だなと思うかも知れませんけど、この繰り返しの中に法華経が身体の中に染み込んで行くんだと言う事をですね、やっぱり考えておく必要がある。ですから私共が学ぶ法華経は日蓮大聖人によって、今申しますように信解、(信じて理解していく)そして実践して体得されたところの、その法華経を学ばねばならない。言い換えると日蓮大聖人の生き様を手本として私共は法華経を学んでいく、と言うことですね。ですから日蓮聖人と縁のない法華経という物は私共に取りましても、縁のないお経に成るんだと言うことになるわけでございます。


(お経とは何ぞや?)
今、盛んに法華経と言うことを口にしておりますけれども、法華経、法華経と申しましても、これもお釈迦様の一代仏教の中の一つの教典でございますね。ご承知のようにお釈迦様は国王の子供として、王子として生まれ、そして十九歳で出家、三十歳で成道されておりますね。近代仏教学では二十九歳で出家、三十五歳の成道と言うことが、巷の仏教書典に出ておりますけれども、日蓮大聖人が学ばれた仏教学というものは十九の出家、三十成道であります。三十歳から説法を始められて八十歳でお亡くなりになられた訳ですから、五十年間説法をされた。その五十年間説法の中の晩年の八ヶ年かけて説かれたのが、この法華経だと言うことに成るわけでございます。ですか法華経と言えども一代仏教の一つである、という位置づけに於いては変わりはないですけれども、先ず此処で初歩的なことなんですけれどもですね、「お経って一体何なんだ?」とと言うことを皆さんと一緒に考えておく必要があると思うのですね。お経。昔は巻物であったから経巻、或いは教典と言った。今は仏具屋さんに折り本になって売っていますから、お経本と申しますけどね、中身は同じお経ですよね。お経って何なんだろう。正面から皆さんお孫さんに聞かれたらどう答えますか。「何か漢字で書いてある難しいものだ。」と、言って誤魔化しますか?「お経て何だ?」 何か正面から聞かれたら言いようがないですね。で、「お経は誰の為に読まれるんだ?」と聞かれたらどうします。

まあ、秋田県の皆さん方だっらちゃんと答えなさるだろうけれども、この間私ね、大阪の地元の商店街を衣を着て檀家廻りをするのに歩いおったらね、幼稚園に上がる前位の小さなお嬢ちゃんが、お母さんに手を引かれて歩いて居った。商店街ですれ違う手前で私の方を指差して、子供って遠慮ありませんからね。皆さん人の事を言う時にアレとは指を差さないでしょう。子供は無邪気だから遠慮がないですよね。指を差してしかも声も潜めずに、大きな声で「お母さんあれ何?」私、犬じゃないですよ。狸でもない。こうして、歩いて居っただけなのに、私の事を「あれ、何?」とこう聞いた。で、私は通り過ぎようかな思ったけれども、その三十前後のお母さんがどう説明するかなということに興味があったから、歩調を緩めてお母さんの解説を聞いてみようと思って側で耳を傾けて居ったらね、お母さんが、(さすがにお母さんは小さい声で言いますよ。注意しながらね、)「あれはね、お坊さんなのよ。」とこう言ったんです。ああ良かった、お坊さんと認めて貰った思った。そうすると今度は子供が、又更に大きな声で、「うーん、お坊さんって何をする人?」良い質問だね、だから子供は好きなんですね、こういう疑問を持つというの事がね。さあ、若いお母さんは何と答えるだろう。三十前後のお母さんは声を殺すようにしながら、「お坊さんというのはね、人が死んだ時に来てお経を読んでくれる人よ」と、こう言ったんです。子供は「ふーん」と言って、それで会話は終わった。「三つ子の魂百まで」と言葉があるでしょう。このお嬢ちゃんの頭には(頭を丸めて、衣を着たお坊さんの仕事は、人が死んだ時に来てお経を読んでくれる。そういう仕事をする人だ)とこう思い込みますよね。これはその幼い子供にそう思わせたお母さんに原因がある。しかし、そのお母さんもそういう認識しかないのはそれを育てた親に問題がある。代々親から、先祖代々、そんな感覚でお坊さんを見てきたと言うことですよ。

新しい方がね、「お檀家にしてくれ」と言って住所と電話番号を書いて私の所に送ってきたから、「じゃお参りしましょう」と行くんだけど、私も郵便屋じゃないから、住所を見ただけでは家が解らないのでね、そこでたばこ屋さんで聞けば分かるだろうと思って尋ねて、「山崎さんという家にお参りしたいんだけども、何処ですか?」と言うと、「この角を曲がって三軒目ですよ。」とそのご主人が教えてくれたから、「有り難うございました。」と言って、お辞儀をして行こうとしたら、「お寺さん、お寺さん」と呼び止められる。あれ、間違ったかなと思って、聞き直すと、「あそこのお婆さんとうとう亡くなりましたか?」とこ言う。私が家を尋ねれば何故、人が死なねばならん。世間の人は坊さんの姿を見たらね、人の不幸があったと思いたがるんですね。だからお坊さんの仕事と言えば、(死んだ人にお経を読んでくれる仕事だ)とこういう認識が世間の中にあると言うことは、此処にいらっしゃる方はともかくとして、世間の人はそうなんですよ。(お経は死人の為に読むもんだ)と思い込んでいる人が世間に大勢いると言うことですよ。これは、とんでもない誤解なんですよね。一寸考えましょうよね。


(お経は誰の為にある)
皆さん、「お経というのは何時、何処で、誰が、誰に何を説いたんだろう。」これ考え見ましょうよ。お経が説かれたのは時代で言えば何時だと思いますか。おおよそ今から三千年の昔でしょうね。三千年前と言えば誰が活躍なさった頃ですか。首ひねられても困るなあ。三千年も生きてないから。わからんでしょうけれども、三千年前と言うば、インドでお釈迦様が活躍なさった時ですね、仏教の教主、開祖お釈迦様ですから、ね、何時と言えば三千年前と言うことなんです。何処でと言えば今申し上げたように、これはインドであります。インドです。誰が説いたかと言えば、これは間違わないで下さいよ。誰がお経を説いたんですか?お釈迦様でしょう。ね、此処間違ったら万事休す。アウトですよ。お経を誰が説いたかなんて。中にはね、「法華経は日蓮聖人が説かれたんですね」なんて、平気な顔をして言う人がある。法華経を日蓮聖人が説いたなんて話は何処にもない。お釈迦様が説かれたんです。誰がと言えばお釈迦様ですよ。次はね、問題は、誰にお経を説かれたかと言うことですね。誰にお経を説かれたですか?誰にお説法をされたと思います?お釈迦様の生きて居られた時代の人々を相手に説法をされたんでしょう。そうでしょう。違いますか? お釈迦様が、初めから墓場に行って説法されたと言う話はないでしょう。世の中に生きている相手に対して説法を始められた。これがお経ですよね。じゃそのお経の中身って何んだ。何を説いたか。何を説かれたと思いますかな。お経の中身。これは「この世に生きる人が如何に幸せに生きることが出来るか」と言う、この道筋を明かして下さったのが、お釈迦様の説法の中身なんですね。

つまり、お経というのは一口でまとめて言えば、「お釈迦様のご説法の記録」なんです。これがお経なんですね。そうでしょう。そのお釈迦様のご説法は誰の為に説かれたか、現実に生きて居られる、この世に生きて居る人の為に説かれたんだという事。これを忘れてはならないんですね。何の為に、その中身は何かと言うと、今申しましたように「この世の中に生きる人が楽しく、有意義な人生が送れるように、苦しみ、悩みから解放されるように」と言う願いを込めて説かれたのが、これがお経ですね。つまりお経は生きた人を相手に、生きた人の人生の為に説かれたもんだと言うことをよく認識しておいて頂きたい。そうすると三十歳のお母さんが言うように、死んだ人の為にお経を読んでくれる人だよと言うのはおかしな話になる。法事やお葬式で住職がお経を読むのはね、世間の人はね、亡くなったおじいちゃんのお位牌に聞かせているのだと思っているんですよ。違うんですよ。亡くなったおじいちゃん、私、皆さんのおじいちゃんの事は、よく知らないけれどもね、生きてる時にそんなに熱心に法華経の説法を聞いて勉強された方ですか? 法華経の中身を良く理解してあの世に旅立たれたんです?。もしそうであれば聞かせてあげても喜ばれる。「おお、懐かしいなあ」と。でもお盆の施餓鬼位にしかお寺に行ったことがないようなおじいちゃんがね、普段お説法を聞いたことのないおじいちゃんが、生きている時に全然分からんかったおじいちゃんが、死んだら直ぐに分かるようになるんですか?そんな都合のいい話は無いですわな。生きて居った時に分からんものが死んで直ぐに分かるんなら、我々早う死んだ方がいいかも知れんね。お釈迦様のご説法が理解出来るんなら。つまり生きておった時も分からんのに、死んで直ぐに分かるはずがない。なのに施主になる我々、生きた家族が、「自分でも全く分からないけれども、何か知らんけれも、分からんお経でも唱えてもらえば、向こうで(あの世で)おじいちゃんが喜んでくれるわ」と勝手に思い込んでいるんですね。


(ご回向とは)
そうじゃないんですよ。お葬式や法事はね、身内の死を一つの縁として、仏縁として其処に親戚、友人、知人、縁者を沢山集めて、そこで菩提寺の住職に来て貰ってお経を読んで貰うわけだ。何てお経を読んで貰うんだろう。そのお経を読んで貰う元来の目的は何かと言うとね、時間と空間を越えて三千年前にインドでなさったお釈迦様のご説法を、我が家で再現して貰うんだと言うことが、住職にお経を読んで貰う元来の意味なんですよ。そこを間違わないで下さいよ。お経を読んで貰うのは亡くなったおじいちゃんの位牌に読んで貰ってるのではなくて、そこに集まった家族、親戚、友人、知人、縁者の為にお経を読んで貰ってるのです。だからそのお経というのは、さき程申し上げましたように、お釈迦様のご説法の記録を綴めた物だから、お釈迦様のご説法を三千年後の今日に再現して居ると言う事になるわけですね。そこでそのお釈迦様のご説法、つまり今日読んで貰ったお経の中身にどういうことが説いてあるか。今日此処に集まった人々は、普段あまりお寺に行って話を聞く機会のない人々ばかりだから、たとえ十分でも十五分でもいいからこのお経の中にある意味を、お釈迦様のメッセージをね、ご住職から皆さんに少し伝えて頂けませんかと言う事をお願いするのが、施主なり、喪主の役目であったんですね、元々は。だから法事の時には、「施しの主」と書いて施主と言う。お葬式は喪主と言いますけどね。

あの施主と言う言葉が表しておりますように、法事は昔から追善供養と言った。追善回向と言ったんですね。善を追いかけると書くんですね。追善して、回向する。これはどういう事が言うとね、亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんは、この世にある時に充分に仏道修行をして功徳を積まれた方であれば良いけれども、そうでなくしてこの世を旅立った人はね、なかなか良いところへは行けないわね。しかし良い所へ行って貰いたいのが人情ですよ。じゃ、どうするんだと。この世で積んだ自分の行いはあの世でひっくり返すことは出来ない。そこで残された家族が、遺族が、亡くなった人に替わって、亡くなった人の分まで良いことをしようと、その良いことを後からしようと言うので「追善」と言うんです。後から追いかけて善をする。ね、良いことも色々あるけれども、良いことの中で一番良いことは、これは仏法に縁の無い人々に、お釈迦様のご説法を聞いて貰うと言うことが一番良いことだ。一番功徳になる。だから自分ではそれが出来ないから、専門職のお寺さんに来て貰って、そこでお経を読んで貰って、そのお経の意味を解説して貰う。これが残された家族に出来る一番良い功徳なんですね。善なんですよ。この善を施主が勤めるわけですね。行うわけです。その施主が勤めた善行と言うものの功徳は何処に来るかと言うと、それはお布施を包んだ施主自身に返って来るですよ。いいですか。その住職に読んで貰ったお経の功徳は自分に返って来る。これは同然ですよ。自分が功徳を積んだんだから、志を立てて、お坊さんを招いてお経を読んで貰ったんだから、善根を積んだわけだから。その功徳は施主に一旦返って来る。その返って来たた功徳を独り占めしても一向に差し支え無いんだけれども、此処で「追善回向」と言う言葉があるように、その功徳を自分一人が使うんではなしに、亡きご先祖に「どうぞお使い下さい」と言って、あの世のご先祖に回らし手向ける事をするから「回向」が成立するんです。解りますか?施主が功徳を積んで、法事を勤めて、お布施を包む。その功徳によって得た、自分の果報、功徳と言うものを、自分自身で使い果たすのではなくして、志を立てるご先祖に「どうぞお使い下さい」と言って回向する。

だから住職の読むお経は、ダイレクトにお位牌に行くのではなくして、まず其処に集まった生きた人々に対して、この矢印は向けられる。それ(お経)を解説して貰ったことによって、例え一節でも一句でも、「ああ、お釈迦様はそういうふうに仰っているのか」と言うことを、その法事なり、お葬式の席で理解して帰る人が有ったならば、これは莫大な功徳なんですね。仏法に縁を結ぶ「結縁」と言う功徳。その莫大な功徳が、お布施を包んだ施主に返って来るんですよ。だからお経はまず生きた人々に聞かされて、それを聞いた人達が喜んだならばその功徳は施主に返って来る。その返って来た功徳を、それから初めてお位牌に捧げる。回向する。だから回向する主役は施主であり、喪主なんですよ。住職では無いんですね。「ご回向をお願いします」と言って頼みに来るのはおかしな話です。「どうぞ読経をお願いします」ですね。その読経の意味を解説して貰うと言う事が、一番パーフェクトな法事のあり方だと言うことで、昔から「説法法事」というのが有ったんですね。説法をすると言う法事が有ったと言うことです。


(お葬式の引導の中身)
だからこれを見ても解りますように、「お経と言うものは、亡き人の霊を慰める為に説かれた物ではないよ」と言うことを先ず絶対に頭に入れておいて下さい。生きてる人間の生き様を示す為に説かれた教え。この世に生きる人の為に説かれたお経を、既にあの世に行ってしまった人に説くのはね、これは手遅れなんです。もはや遅い。お葬式のときにね、ご住職が棺の前に立ってね、引導文を読むでしょう。引導文。引導。これはね、正式には「引出導入の義」と言いましてね、引っぱり出して導き入れると書くんですよ。これを省略して引導と言う。お葬式で住職が前で引導を渡すのが、これが一番の見せ場。クライマックスですよね。これはどういうことでしょうね。この間も、別の場所で、丁度一週間前だけど、やっぱりこういうふうに、檀信徒が集まる席があってね、お話をしたことがあるんだけど。何かキョトンとしてる方があって、「どうしたの?」と、尋ねてみたら、「いえいえ、何でもありません」というから、それ以上聞かなかったけれども、まさか「死んだ人を棺から引っ張りだして、釜に導き入れるという意味じゃなかろうな。」と考えておられたのかも知れませんね。住職もそんなことをはしませんよね。この引っぱり出すのは何処から引っぱり出すかと言うとね、「迷いの世界」から引っぱり出して、そして「覚りの世界」に導き入れる。これが引導なんですよ。引出導入。

私、子供自分からお坊さんの身なりをしてよく先代の父親に連れられて、檀家参りをしたり、お葬式の役僧に立ち合ったりして居った。子供の時分は余り気にも留めなかったけど、大学に行く頃になって一寸疑問を感じたことが有って、それは何かと言うと、先代の住職が引導を渡す時にね、こう言うんですよ。「今、汝が為に悟道の要句を示さん。」まあ、皆さんお葬式に立ち会ったら良くおいて聞いて下さい。「悟道の要句を示さん。」悟道と言うのは、悟りに至る道。いいね、悟道の要句。その肝心要な所を教えてやろうと言うんですかね。「悟道の要句を示めさん。慎んで諦聴・諦聴、善くこれを思念せよ。」と先代はずっとお葬式でそう言って引導を渡していた。で、私ね、その引導を横で何時も聴いおてってね、ある時、帰りの車の中で聞いたんです。「おやじさん、今聞いて居ると、引導と言うのはどうやら悟道の要句を示さんと言うんだから、悟りに至る道を、良い所を教えてやろうと言ったんだろう。そのような、いい話が有るんなら、何んであの人が死ぬ前に言うてやらなかったのか?」と。そうは思いませんか? 私は二十歳前後に素朴にそれに疑問を感じた。「悟道の要句を示さん」と言いつつも、誰を相手に言ってるんですか?、「霊也、今、汝が為に」とあるから、もう既に霊界に行ってしまった人に対してでしょ。、向こう(霊界)の人が理解出来たか、出来ないかを、何処で確認するんでしょうね。向こうは死んでしまってるんだから質問も出来ないしね。もし、声が聞こえるとしたら、「住職、そんな良い話があるんだったら、何で生きているうちに聞かしてくれなかったんだ。」でしょうね。当然そうなるわなあ。

だからお坊さんが引導を渡すのは、お葬式の時ては遅いんだ。私が今日ここへ来たのは、皆さん方に引導を渡しに来たんだ。「悟道の要句」を示めしに来たんです。そうでしょう、生きている時に聞いてこそ値打ちがあると思いませんか? だって、「悟りに至る道」なんだもの。皆さんね、此処で今日聞いた話がどこかで必ず役に立ちますよ。死んでから、こんな話を聞いてみても、有り難い事も嬉しい事もないはずだ。


(理想的なお葬式)
静岡県の三島にね、玉沢と言う地名がありまして、そこに日蓮宗の本山なんですが、妙法華寺と言うお寺があります。此処の数代前の貫首さんがね、実に愉快な方でね。どう愉快な方かと言うと、本山ですからね、昼間は草引きをしたり、お墓の掃除をしたりするような、坊守と言うか、墓守と言うかそういう仕事をするお爺さんがいましてね。家族が居ないので、身寄りがなく、一人でそのお寺に住み込んで、いつも掃除しておったんです。このお爺さんと、貫首さんは仕事が終わってから夕方になると、何が楽しみかというと、一献酌み交わす晩酌が、何よりも楽しみだったんです。で、このお酒を酌み交わしながら、さすがに本山の貫首さんですから、世間話はしない。世間話よりも、お酒を酌み交わしながら、「なあ、爺さんや。お釈迦様はなあ、法華経にはなあ、お祖師様はなあ、・・・」と言うことをね、来る日も、来る日も酒を飲みながら、毎晩毎晩話をして来た。

そんな生活が続いた中で、ある時そのお爺さんが不幸にして病気で亡くなった。亡くなったら村の人がお通夜の用意を全部して、準備した。静岡という所は、よく、解らないけど、お通夜の法要前に先にお酒を出して振る舞うらしいね。法要の前にお酒を見た貫首さん。もとより好きだから、時間まで飲んでいるうちに酔いが廻っちゃったのね、で、お通夜の時間になって、村の人が「貫首様、お通夜の時間ですから、お経をお願いします」と言ったら、「よしよし」と言って行くんだけどね、足が立たない。貫首さん酔いが廻ってしまって。で、棺の前に行って、お経を読むのかと思ったら、「爺さんすまん、今日は堪忍してくれ。明日来るから。明日は必ず来るから、すまん。」と言って帰っちゃったと言うんですね。これ、本山の貫首様だから通るのよ。我々がそんなことをしたら明くる日、早速総代会議を開かれて住職追放ですよ。貫首様だから通った。明くる日のお葬式にお酒を飲んでない貫首さんが来た。みんなどんなお葬式するだろうと思って、引導に耳を傾けて居ったら、その貫首さん、原稿もなにも持たないで、棺の上にある写真をじっと見て、貫首さんは何と言ったと思います?「爺さんや、今更何も言うことは無いわい。何十年もお前さんに、毎晩酒の席で言うた通りだ。いいか、忘れずに早う行け。」ですよ。

皆さんね、こんな素晴らしいお葬式は無いと思いませんか?貫首様からマンツーマンで「法華経の話や大聖人の話」を何十年も聞き続けて、それこそ毛穴どころか、耳の穴から入ってね、酒を飲んでいるから毛穴も開いてるだろう。よく入ったと思う。「もう、あんたに言うことは生きてる時に全部言い尽くしたよ。今更棺に向かって言うことはない。お前さんに言う事は何もない。今まで言うた通りじゃ。ええか、忘れんと早く行け。お祖師様の所へ行け。」 そうして送り出されたお爺さん。天下一の果報者だと思いませんか?私もね、死ぬまでに一遍そういうお葬式してやろうと、今から腹に決めて居るんだけれどもね、なかなかそういう人が未だに現れないんですよ。マンツーマンで話が出きるような人がね。もしそういうお葬式を出されたらね、訳の解らない家族は、「何て無礼なお葬式だ!」と言って腹を立てるかも知らんけどね、今日こうして話を聞いた人だったら、「こんなお葬式を出して貰えるほど有り難い事はない。」と言うになるんですよ。

それは先程言った、「悟道の要句」を元気な内に聞いて、理解できる内に法門が聞けた人の果報ですね。それをするのがお坊さんの本来の仕事なんですよ。ね、「お爺ちゃんが息を引き取りました。今、病院から家に連れて帰って来ましたから、枕経をお願いします。」 それからお坊さんに来て貰ったのでは遅すぎるのね。お爺ちゃんが元気な時から、「もうそろそろお迎えも近いから、一寸今のうちから法話をしておいてあげて下さい。」と言う位の、若い者の思いやりがいるわね。又お爺ちゃん、お婆ちゃんも、「わしは、今から聞いても間に合わないけど、若い者はこれからや。これから人生を踏み外ずさんようにする為に、一つ仏様の話をしてやってくれよ。」と言う位のお年寄りと、若者との相互の思いやりと言うものが、大事だろうと思いますね。

だから、御経と言うものは、そういうふうに此方が接していかないと、「何かよく解らないけど、死んだ人が聞いたら喜ぶだろう。」と言う感覚でお経を聞いていたのではいかん。そんな感覚で居るから法事の御経が長いと退屈する。足の痺れがこたえるえるのよ。もう、三十分も過ぎているのに、まだ拝んでいたらね、「もうそろそろ仕出し屋が来ているんじゃないかなあ。」等と後のご馳走が気になるのよ。でも、何か知らんけどね、「判らんからこそ有り難い」とか、何か訳の解らない事を言う人達が多すぎますよね。


(僧宝の欠如)
我々が御経を扱っておりながら、仏法が衆生を利益しないのは、当たり前。それは、いくら素晴らしいお釈迦様が過去にお出ましになっても、お釈迦様が如何に素晴らしい教えを説き残して下さっても、それを取り次いで弘めてくれるお坊さんが、仕事をしなかったら、誰が法を弘めるんですか? そうでしょう。聖徳太子の時代から、十七条憲法の中にね、「篤く三宝を敬え。」と仰っているでしょう。三宝って解りますか? 仏教の世界にある三つの宝ですよ。一つはお釈迦様ですよ。仏様の宝。二つは何か。そのお釈迦様が説いて下さった御経ですよ。教えです。法の宝。三つ目の宝は何かと言うと、これがお坊様なんですよね。僧の宝。この宝(僧宝)が仕事を怠ったら仏法は弘まらない。日蓮大聖人も仰っている。「たとえ佛の宝、法の宝が存在すると雖も、(我々には耳の痛い話なんですよね)僧が、つまりお坊さんが、これを習い伝えずんば、法は一人して弘まらず。」と仰っているんですね。お坊さんがこれを学んで、それを咀嚼して檀信徒に解説しなかったら、誰が法を弘めるんだ。

お釈迦様は、三千年前にお隠れになっている。お釈迦様の時代に生まれ会わせた人はラッキーだけれども、お釈迦様亡き後の世の人々に、この法華経を弘めるのは、お釈迦様の役目ではない。お釈迦様はその仕事をお弟子に託された。そのお弟子の一分にあるのが我々僧侶ですよ。そのお釈迦様の託された仕事の中身とは何ぞや。これは、今は亡きお師匠様であるお釈迦様に成り代わって、お釈迦様が伝えんとしたその心を、お釈迦様の熱きメッセージを、如何に現代の人に取り継いで行くかと言う。これがお坊様の元来の使命なんですよ。お坊さんがこの使命を忘れ去ってしまった時に仏法は途絶える。その時に衆生を利益する事は出来ない。いいですか、仏法が今、衆生を利益していないのは、偏に僧宝の欠如にある。お坊さんは存在するが、そのお坊さんが(宝)たり得ない。これは私自身の反省を一番に含めて言ってることですけれども、そこに大きな、大きな要因が有る。


(お坊さんの扱い)
昔はね、御説法をして、お釈迦様の教えを取り次いでこそ、御信者がそれに納得して、喜んで始めてお布施を包んだんですよ。今は、そうじゃない。ご先祖のご命日に、お坊さんに来て貰って御経を読んで貰うから、その「労働の対価」としてお布施を包んで居る人がある。東北の人はよく解りませんが、関西ではやっぱり、そういう人がいるんですね。「こんにちは」と声を掛けながら家の中に入っていったら、「ああ、ご苦労さん」と、声が聞こえて来るけれども、姿が見えない。何処にいらっしゃるのかなあと思うけれども、こっちも時間が惜しいから、お仏壇のある場所はもう既に判っているから、勝手に上がり込んで行く。ロウソクを付けている間に、後ろに来られるかなあと思っていたのに未だ来ない。仕方がないから金を打ったら、「あ、お上人すみません。今一寸手が放せませんので、そこに置いてありますからお願いします。」何が置いてあるのかと思って当たりを見たら、(お布施)が置いてあった! お布施さえ置いていたら、「勝手に拝んで帰れ」と言うことですわ。「置いてあるから頼みます。」と言うのは…。仕方がないから、御経を読み始めておってら、格子戸のガラス障子の向こうに、テレビの画面が動いてるのが見える。何を見てるかは見えないけれど、テレビが付いてるのは見える。奥さんが椅子にちゃんと座ってテレビを見ているのがね。「何が手が放せないんだ!」と思うよ、こっちはね。それはテレビを見て居るから目が離せないんだろう。ところがね、何処で学んだか知らんけど、御経が終わって、鐘を打ってお題目の頃になると、実に絶妙のタイミングでポットから急須にお湯を注ぐ音が聞こえてくる。そして、回向が終わる頃になったら、「ご苦労様でございました」と言うてお茶が、ちゃんと出て来る。

これは先祖供養を他人に任せっ放しですよね。自分が供養するという気持ちがない。「お寺さんが来て拝んでくれれば先祖は喜んでいるだろう。」と、こう思っている。その時に「来て貰った労働の対価として、お布施をする」と言う考え方。これは間違ってるよ。で私ね、お檀家さんに、「あなた、後に付いて、一緒に御経を読みなさい。」と言って、お経本を手渡したら、「漢字ばっかりで読めん。」と言う。「じゃあ、訓読で、和文で読むから、読みなさい。」と言うと、今度は、「伸ばす所と縮める所が判らない。」と言う。大阪の人はね「ああ言えば、こう言う」

「それならば、黙っていてもいいから目で文字を追いなさい。」と言うと。「何処を読んでいるかが判らないから、読めない。」言う。
もう六十で定年を迎えようかという、イイおじさんが真顔で私に聞くんです。「ねえ、お上人。何でわしらに御経を読めと言うんですか?」と。面と向かって聞かれると、こっちもビックリしたけど、「そりゃあ御経を読むと有り難いからね。」とこう言うと、そのおじさん、私に何と言ったと思いますか?「わしらは素人じゃ。だからプロの貴方に来て貰って御経を読んで貰らっとるんじゃ。な、わしらあんたにタダで来てくれと、言ったか?来て貰って御経を読んで貰らっているから、お布施を包んでいるだろう。だから(あんたは御経を読む人。わしは、お布施を包む人)これバランスが取れてるじゃないか。フィフティー・フィフティーだ。その上に更に、私らに御経を読めとか、後に座れと言って要求するのは、一寸可笑しいんじゃないか。」と言う。冗談で笑いながら言うんなら良いけれども、真顔で言うんですよ。呆れましてねえ。だから世間の人と言うのは、お坊さんの役割というのは、せいぜい其れ位の事だと思っていると言う事ですよ。「これから忙しいと思うたら、お上人、もう結構ですよ。さっき仏壇屋でテープ買って来たから、日蓮宗の御経のテープをかけておきますから。」と言う時代が来るんじゃないかなあと思いますね。

だいたいね。お坊さんの地位も、今、日本では地に落ちたもんでね、これは、禅宗の話だけれども、「何か今のお坊さんに期待するところ有りますか?」と言うアンケートを取ったらしい。まあ、殆どの人がね、「特別何も期待するもの有りません。」と答えた。だって、病気になったら病院に行く。困った事が起きたらら弁護士の所に行く。会社が傾いたら経営コンサルタントの所へ行く。今の時代はみんなそれぞれに担当があるから、お坊さんに、「これ」と言って聞く事がない。でも昔は違ったんですよ。人から貰った手紙の文字が読めなかったら、「お寺の和尚さんの所へ行って読んで貰おう」とかね。薬の見分けが分からんかったら和尚さんに聞いて、「どの薬を飲んだら良いか」を聞こう。昔は、お坊さんが世の中で一番の知識人、文化人であったんです。今は、一番後から走っているのかも知れないけどね。イヤ、秋田県のお上人さん方は違うよ。そんな目で見たら罰が当たるよ。これは大阪の話だ、大阪の話。このテープ聞いた大阪のお上人から怒られるかな? で、それじゃ、あまりに、悔しいから、「そういわずに何か期待する所も有るだろうから、一つでも二つでもいいから、書いて来れ」と言って、更にアンケート続けたら、どう言う答えが返って来たと思います?私、その内容を見て、吹き出しましたよ。「そうだなあ、特に期待する事は無いけれど、あえて注文を付けるとしたら、我が家の法事の時に、時間に遅れないように来て下さい」と。でも本音だと思いませんか?そんな感覚で居るから、家族の不幸があった時に、「是非とも、あのお上人様にお導師を勤めて頂きたい」と言う人に巡り会わないのですよ。誰でもいいのでしょうね。だから枕経の後でお葬式の打ち合わせをするとね、ひどい人になるとね、「何処のお寺さんでもいいけど、とにかく赤いの三人と、紫二人でお願いします」言う。チンドン屋じゃあるまいし。「赤いの三人、紫二人」もう、そう言う感覚になって来て居る。


(仏法衰退の原因)
それは、誰が悪いのか。「お坊さんが法を伝えないから悪いのか、檀信徒が法を求めないから悪いのか」 これを、言い合いしたらニワトリと卵はどっちが先だ。となって来る。ね、そんな話をしていたら、大阪に面白い人が居って、「それはねお上人、実はね、卵が先だ」と言う。「何で?卵を産むにはニワトリが居て居るだろう。」と言うと、「違う。一は、卵、ニは鳥と言うだろ。」こう言う発想は吉本の乗りが無かったら出来ない発想でね、「一は、卵で、ニは鳥。これで結論が出たんだ」と言って喜んでいる。ああ、なかなか面白いなあと思ったけど、そんな議論、此処でしても仕方がないけれどもね。 マァ、これは冗談ですけどね。

お互いに責任があるわなあ。お坊さんに「何で法を説かないんだ?」と聞いたら、「だってみんな其処まで、感心がないし、興味を持っていないから、寝てる子を起こす必要は無かろう」と言って敢えて説かない。そこで今度は、檀家に「何故、法を聞きに行かないんだ?」と尋ねたら、「だって和尚さんが、お説教をしてくれないんだから」と言って、どっちも相手の責任にする。ね、おかしな世界でしょう。「法を伝えない住職と、法を求めない檀家」 これで均衡が保たれているこの世界はだけですよ。これセールスマンだったら「物を売りたがらないセールスマンと買いたがらないお客さん」で商談が成立しますか? セールスマンが「別に私は車を売りたくもないけど、あなたもたぶん要らないだろう」と言うと客のほうも、「わしも車に乗りたくないから要らない。」と言ったりすると、これではもう破談ですよね。そう言う感覚を持った者同士が仲良く付き合いが出来るのは、お寺の世界だけなんですよ。ね、「物を売りたがらないセールスマンに、買いたがらないお客さん」のようなものですよ。こんなことで、それりゃ、仏法は弘まりませんよね。

だから皆さんが、もっと仏法を求める求道心を起こすことが大事。又、お坊さんは聞きたくない人の耳を開けてでも聞かせしめる努力が必要。お互いの努力が大事だと思いますね。そう言う住職と檀信徒の関係が成立して、初めて仏法に縁のない人に、皆さんが又お役に立つ仕事が、そこから生まれて行くわけでしょう。だからこの体制を見直さなければならんよ。皆さん!私はこれを言う為に青森から、北海道から九州までウロウロと歩いおるんです。でも、こんな事ばかり言うて廻ると、大概、お坊さん方に嫌な顔をされる。「あんた余計なこと言うな。寝てる子を起こすような事言うて。」と、叱られるんだ。だから、今度、寿量品の話には来れないか判らんけれども、まあ、そう言う事を考えはするけれども、やはり言わなければ、此処まで来た意味がないから、仕方なく、仕方なくてと言えば、仏様にお叱りを受けるね。仏様の御為に、これはやっぱりお取り次ぎせにゃならんなと、言う事をお坊さんも、お檀家もどちらも意識改革をして、立ち上がらない限り、仏教なんて所詮「墓場の宗教」ですよ。「死人相手の宗教」になりますよ。こんな事で若い人が付いて来ますか?「葬式・法事は年寄りに任せておけばいいんだ」となる。大体お仏壇の有る部屋と言うのは、お婆さんの寝間。布団を敷く所。と、相場が決まっている。若い人の部屋にお仏壇が有った試しが無いでしょう。死人の宗教だと、そう言う先入観を与えているのは先輩の皆さんだよ。皆さんが若い人にそう言うイメージを与えた。


(お仏壇の主は誰?)
皆さん、お仏壇を拝む時に「本尊はお位牌に非ず!」と言う事を認識して下さいね。「本尊はご先祖にあらず。本尊はお曼荼羅であり、お釈迦様の仏像なんだ。」と。つまり、「本尊は仏様だ」と。死人を仏と呼んではいかん。「本尊は先祖にあらず、位牌にあらず。」ね、此処を良く考え頂きたいと思うんですね。礼拝の対象はご本尊様。お釈迦様なんだと。そのお釈迦様に手を合わせる生活をしないから、先祖のお守りをするのは億劫だとか、荷が重いと言う。だから分家や次男の家には、お仏壇が無いと言う馬鹿げた現象が起きるんですよ。私は、檀信徒の中で分家をなさる若い新婚夫婦に、「必ずお仏壇を祀りなさい」と言う。そうすると、「いや、死人がないから、祀る必要はないんじゃないですか?」と言う。「礼拝の対象をお迎えするのに、死人が有ろうと無かろうと、何の関係が有ろうか。黒檀や紫檀の仏壇が厳めしいのなら、博多人形のケースでも良い。その人形ケースにお曼荼羅とお釈迦様の仏像を祀りなさい。そうして、新婚家庭の中でお互い、朝、出かける時にお題目三遍でも良い。十遍でも良い。唱えて手を合わせて行って参りますと、帰ってきた時には、只今帰りましたと。或いは夜、休む時にはお休みなさいと言えるような生活をしなさいよ。」と言うんですよ。

そこにやがて子宝に恵まれて子供が出来るね。核家族化された家庭の中では、子供の目には「親が一番偉い存在」に映るんですよ。そうでしょう。その一番偉いと思うお父さんやお母さんが、それよりも偉い何物かに、手を合わせて頭を下げて居るなあ、という背中を見せると言うことは、もの凄く大事な情操教育ですよ。これは宗教的縁を結ぶと言う事に於いては、一番効果的なんですよ。ね、皆さん、一番偉いと思う、お父さん、お母さんが、何かに手を合わせて頭を下げている姿を見て育った子供は、何かお隣からお土産のお裾分けを貰った時や、或いはお年玉を貰った時に、「まず仏様にお供えしよう」と言う心が、自ずと子供のうちから芽生えるんですよ。そう言う子供を育てて貰わねばならん。そう言う子供が成長すれば、やがて社会に出て、就職して、初めての給料を貰った時にまず、仏様に、ご先祖様にお供えするという青年がそこに生まれるんですよ。そう言う青年は初任給位はね、自分でパットと遊んで使いたいだろうけれども、この二十歳過ぎまで育ててくれた両親に感謝して、「親父とお袋、これしかないけれども、温泉でも行ってゆっくりしておいで」と言って給料袋を渡してくれるような青年が生まれて来るんですよ。


(親と子の出会い)
皆さんの家はどうだった。そう言う青年が居たかな? 気が付いたら一人で大きくなったような顔をして、偉そうに言ってませんか?偶に子供を叱ったら、「頼みもせんのに産みやがったくせに」と反対に子供に叱られる。言われて見たならその通りだ。「確かにお前の言う通り、頼まれた覚えはないよね。それは済まなかったねえ」と言う情けない親が出来るんですよ。そんなことを子供に言われたら一寸頭を回して下さいよ。「頼んで産めるんだっら、お前のような馬鹿は産まなかったぞ!」と、言ってやって下さいよ。親は子供に感謝されても、文句を言われる筋合いは無いんだから、もっと堂々として下さいよ。親が子を選ぶんじゃないんだよ。子が親を選ぶんだ。子供が次の世に出て来る時の、お父さんとお母さんを選んで、そのお腹の中に自分から入って来たんです。皆さん、記憶は無いかも知れないけどね、御経にはそうある。お釈迦様が嘘つきでなかったらそうなんだ。ね、お腹の中に入って来たのは、子供が親を自分で選んだ結果なんだ。自分に一番相応しい男女が交わる瞬間を求めて入り込むんですね。私はね、檀信徒の若い人が結婚する時にスピーチを頼まれたら、この話するんです。「君たち良いかな、これから新婚旅行に行くだろう。新婚初夜に夫婦の交わりは有るだろうけれども、その時に子供に成るべき人が、あなた方を選んで入って来るんだよ。だから良い子供に恵まれたければ、良い夫婦でなければ良い子は授からんよ。」と言う話をするんですよ。そうするとね。二十歳代の青年がね、私のスピーチが終わってから、「お上人、ほんとうに子供ってあの世で見てるんですか?」と質問をする。「そうだよ。」と言うと、今度は、「電気を消してもダメですか?」と言うから、私は「そりゃあ、ダメだ。だから良い子供に恵まれたかったら、良い両親で在って下さいね。良いご両親の所にのみ、良い子供が宿りますよ。子供が親を選ぶんですよ。親が子を選ぶんじゃないよ。」と言ってあげる事にしている。親が、子供を虐待して殺した事件がテレビで放送されるとコメンテーターがね、「子供は親を選べないんですよ」と言って居るでしょう。子供は親を選べないんだから可哀想と言って居るが、それは違う! 子が親を選んでいるんですよ。子が親を選んで生まれて来る。これが仏法の道理なんですね。

だから皆さん、簡単に言い返す事を考えねばならん。「断りも、承諾も無しに勝手に入り込んで来たくせに、お前の方が問題だろう。今の法律に照らせば、(不法侵入)だぞ! 十月十日の間、私は家賃を請求したか?これは(賃料不払い)じゃないか! これは、訴訟を起こしたら勝てるぞ。その間誰から栄養を取った? 臍の尾からだろ。(無銭飲食)十ヶ月分。最後は生きるか、死ぬかのえらい目に会わせて、腹を痛めて産ましておいてね、それで頼みもせんのに産みやがってとは何事じゃ!」と主張しましょう! これは皆さんが叱りとばすぐらいの元気が無ければダメだ。その元気は、仏法を学んだ智慧から出て来るんですよね。そう言う事考えなきゃいかんですよ。だから、あの、水戸光圀公はね、自分の誕生日をね、誕生日と表現しなかったと言うんですね。「今日は母難日だ」と言ったと言うんです。「我が母が難儀をして私をこの世に送り出して下さった日だ。これを感謝する日だ。誕生日のお祝いと言うのは、こうでなければならん」と言う。どうです、皆さん。皆さんの息子さん、お嬢さんが誕生日に母難日だと言って、温泉旅行のチケットでもくれましたかな。そう、育たなかったのは皆さんの生き様に、やっぱり問題があったと言うことです。ね、だから何時の世に於いても、良い子供に恵まれようと思えば、良い親でなければならない。まあ、今日お集まりの方々は、これから子供に入って貰う心配は無いかもわからんから、今度皆さんは次の世の良い両親を探す、求める心配になって来る。ね、「良いお父さん、お母さんの家庭に産まれたいなあ」と思ったら皆さん、今からでも遅くないよ。この余生を有意義に仏法の為に生きる誓願を立てなかったならば、ダメですよ。

皆さん、振り返ってみると楽しい事より、辛い事の方が多かったんじゃないかな? 時には「こんな世の中だったら生まれて来なかったほうがよかった」と思った時もあったかも知れないね。「再び同じ人生を歩みたくない」と思えば、今からでも、良いことをやっぱりせねばならん。その功徳を積むと言うことを、今からでも、皆さんは功徳を積もうと思えば、幾らでも積める条件が整ってる。こう言う法華経の話を聞く機会に恵まれたんだから、これ程の果報はないわけでしょう。これを生かさねばならないと言うことですね。今、時計を見てアッと思ったんだけれど、こんな事ばかり話をしていたら「方便品」の話が出来ないね、方便品の話をもう少ししておかないと、「看板に偽り在り」になってしまう。これからちよっと方便品の話をするから良く聞いて下さいね。


(法華経の位置)
お釈迦様は、三十歳の時から八十歳まで、五十年間、ご説法をされたわけでしょう。五十年間の説法の中のお経は、数多くありますね、もう、お経の数は膨大な数でしょう。何であんなに沢山のお経があったかと言うと、是は、信者さんの悩みの数が、それだけ多かったと言う事なんですね。五十年説法。五十年の間の説法、膨大な数なんです。お経を説いたご本人であるお釈迦様が、此処(七十ニ歳)で区切りを付けられるんですね。「七十二歳までに説いたお経と、法華経では中身が全然違うんだ」と言う事を、お釈迦様が宣言されるんですよ。この事を、法華経の直前に説かれた「無量義経」というお経の中にね、こう言う有名な言葉がある。

「四十余年の程は未だ真実を顕さず」と、こう仰っている。これ誰が言ったか? お釈迦様ご自身が、仰っているんですね。後の我々が言ったんでなくして、まして、大聖人、お祖師様が仰ったわけではない。説き主であるお釈迦様が「四十余年の程は未だ真実を顕さず」と、こう言うふうに仰っている。と言う事は、「今まで説いた教えは真実を顕す為に説いた方便」と言う事をお釈迦様が自ら宣言されて居ると言う事です。八十歳まで方便のままの延長だったら、お釈迦様は最後まで本当の事を言わず亡くなったことになりますね。衆生救済を第一の本願とされたお釈迦様が、そのままお亡くなりになるはずがない。「未だ真実を顕さず」と言う事は、「だからこれから真実・本音を説くぞ」と言う事の宣言なんですね。それから後の八年間をかけて説かれ法門こそが、仏教の中の真髄なんですよ。これが真実の法門、その法門の経典の名前を何と言いますか? 皆さん、一寸耳が遠くなったのかな。答えは解ってっているんですけど、質問が聞こえなかったと思う。これは法華経なんですよ。法華経。お釈迦様が法華経の中でも仰っている。「薬王、今汝に告ぐ」とお弟子に語り掛けるんですが、「我が所説の諸経(自分が今まで説いて来たお経)の中でね、法華最も第一なり」と仰っている。「法華経が一番優れたお経だ」と。これ程確かなことはないでしょう。他人が評価するんでなしに、説いたご本人が「法華経が一番だ・法華最第一の経文だ」と。

日蓮聖人と言うお方はね、六十になる歳に、このお経文に出会った時の印象を、後に手紙に書いておられるんだけど、「五尺の身の内に一尺の面あり。一尺の面の中に三寸の眼二つあり」と書いてある。「この二つの眼でもって、生まれてよりこの六十に及ぶまで、様々な物を見てきたけれども、その中で、この眼の中に入ったものの中で、一番嬉しかった、感激的な物は何であったかと言うと、この法華経法師品のお釈迦様の法華最第一の経文也」と仰っているんですよ。法華経が一番だとお釈迦様が仰ったこの経文が、六十年の生涯を振り返って一番、感動的な瞬間だったと仰っている。「この感動を六十になった今日まで、私は忘れずに来た」と言うんですね。まるで少年のような文章が書ける老人であった日蓮聖人。ここに大聖人の暖かさを私は感ずるんですね。

その「法華最第一の経文」 是を一番でなくて、三番だと言った人が、日本の仏教史上にたった一人だけ居る。これがお遍路さんで親しまれている弘法大師空海。法華がつまらんお経だと言ったのは、この人だけですよ。法然上人も、親鸞聖人も道元禅師も、勿論比叡山の伝教大師も法華経が一番だと言うんですよ。弘法大師だけ、これを三番だと言う。これに対して日蓮聖人は、そのことに付いて面白い表現をしておられる。「弘法は智者なるが故に、(賢すぎたんだろう)一を三と読む。(お釈迦様が一番だとおっしゃったものを、賢過ぎて三番と読んでしまった)日蓮は(愚かなる)愚者なるが故に、(愚か者だからよく判らないから、お釈迦様が一おっしゃればそのまま一と読むと) 一をそのまま一と読む。」 どうですか、皆さん。仏弟子として取るべき立場はどっちが正しいですか? 

お釈迦様よりも、上に成った人は平安時代の弘法大師と、最近で言えば阿含宗の桐山靖雄さん位だ。桐山さんがある対談の中でね、「自分は解脱を得た。解脱の言う世界は何も見えない世界。静かな世界だ。人の声もざわめきも聞こえない。ところがある時、ふと下の方で人の気配を感じた。誰か側まで来て居るのかなあと思って覗いたら、そこにインドのお釈迦様が居られた」とこう言うんですよ。偉い話でしょう。桐山さんの方が上なんですよ。お釈迦様の方が下の方に、「おおここら辺まで来たかと思った」と言うんですよ。それだけお釈迦様よりも法華よりも自分が偉いと思ったのは、遠くは弘法大師、近くは桐山靖雄と言う人が居る。まあ、あまり縁を持たない方が良い。だから皆さん、友達に、老人会で誘われても、関西に行ってもお遍路さんは行くべきでない。行っちゃいかんよ。足を鍛えるなら地元の山を登りなさい。ね、そんなとこへ行っちゃいかん。網代傘に何と書いてありますか?「同行二人」 一人で歩いても二人、これ如何に? もう一人は弘法さんが付いて歩く。来て貰っちゃ迷惑だよね。弘法大師が後に付いて来て貰ったら。お釈迦様の仏法を批判した人だから。これは、お釈迦様の加護がない。つまり、日蓮聖人が真言に対して厳しい批判をされたのはこう言う所なんですね。一番だと仰っているものを三番と言う。これはいかん。この方便の中にある代表的な教えが真言と、南無阿彌陀仏の念仏だ。それから坐禅。此等が全てお釈迦様の教えの中では方便だと仰っているんですよ。法華のみ真実で。是皆方便だと。この区分けは今言うように、お釈迦様御自ら立てられた区分けなんです。此処を良く認識しないといけません。


(頂上に通じる道は?)
皆さん方ね、世間の人が良く言うでしょう。「どのお経でもみんなお釈迦様がお説きになられたんだから、真面目にやっていればそれなりの御利益が有るはずだ。あなたの家は法華かも知らんけど、我が家は門徒だ。だから、また向こうへ行ったら向こうで会いましょうや。登る道は違がっても、目指す頂上は一つだから、再び頂上で会いましょう」と言われたら、「ああ、そうかな」と思ってしまうでしょう。これが嘘八百なんですよ。世間はそう言って納得するけど、お釈迦様はそんなこと一つも仰っていない。念仏・禅・真言の登り道を選んだ人は頂上へは行けないんだと仰っているんですよ。「頂上に続く道は、法華のみだ」と、言う事をお釈迦様は仰っているんですね。そこを日蓮聖人が受け継がれてね、「諸宗無得道。余所のお経、宗派では成仏出来ないんだ。法華独一成仏だ。法華経だけが成仏を可能とするお経だ!」と言うこをですね、力説された。だから日蓮聖人と言う宗教家のイメージは、法華の信者さんは兎も角として、世間の人々は、かの創価学会の影響が有ってか、「ああ、あの他宗の悪口を言うお坊さんか」と言うイメージが有る。


(日蓮聖人の諸宗批判)
「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」 どの宗派も皆駄目だと言う。我が法華のみ成仏の道だと言うでしょう。これは世間で一番嫌われるタイプなんですよ。独善排他的。自分より偉い者はない。他は皆駄目だと言って批判する。自分だけ偉い。だから創価学会は嫌いだと言う人がよくいるでしょう。でも、創価学会も日蓮聖人の流れを汲んでいるから、その根元は、こう言う所に起因するんだけれども、日蓮聖人だってね、少なくとも、少なくともと言うか、確実に我々よりも賢いお方ですよ。その賢いお方がそんなことを言えば、世間に嫌われるということは、我々から指摘されるまでもなく、百も、千も、万も、ご承知のはずですよ。人間は誰だってね、世間とトラブル起こして喧嘩して、嫌われて、嫌がられて一生を終わりたいと思う人がいますか? 皆さん、朝清々しい目覚めした時に、「さあ、今日は誰と喧嘩してやろうか」と考えているような人が有ると思いますか? 出来たら穏やかに、仲良くしたいよね。世間の中で穏やかに仲良くしたいと思えば、変わったことは言わないこと。世間から目立つことをしないこと。これがいじめられない唯一つの処世術。それをすれば穏やかに生きれたに違いない。なのに、世間で流行る念仏・禅に対して「地獄に堕ちるぞ、国を滅ぼすぞ。」と言う事を口にすると言うことは、世間から嫌われる事を承知の上で、したと言うことでしょう。何でそこをもっと考えないのかねえ。皆さん、日蓮聖人の個人的な性格がそうさせたと考えてたら、これは日蓮聖人を誤解していますね。誰がいじめられて嬉しい人がいますか。誰もいじめられなく生きたいですよ。嫌われて、辛い人生を送ることを承知の上で、この道を選ばざるを得なかったのには、それなりの深刻な事情が、日蓮聖人の中に在ったからだと言うことをですね、何故もっとそこを皆さん、真剣に探求しようとしないんだと私は言いたい。他宗の法然さんや親鸞さんや道元さんと同じように肩を並べた日蓮さんだと言うふう思ってるからだ! 

皆さんが車を買う時に、「トヨタの車に乗ろうとも、ホンダに乗ろうと、日産に乗ろうと自分の勝手だ」と思っているから、法華も禅も真言も、皆一緒やと思っている。「それは違うぞ!!!」とお釈迦様は言ってる。法華じゃなきゃ成仏出来ないと言ってるのに、他の教えでもよかろうと言うふうに考えると言うことは、法華経的でないし、お釈迦様的でない。日蓮大聖人は、今申し上げた通り、お釈迦様の忠実なる弟子としての自覚の元に、一生を送られたお方ですから、たとえ世間からいじめられても、誤解されても、お釈迦様のお心だけは、是が非でも伝ええねば成らないと言う使命があったわけでしょう。そこから出発しているんですよ。日蓮聖人の折伏主義と言うのは、諸宗批判というのは、そこから出発してるんですよ。


(方便品とは)
「方便品」が、法華経の前半・つまり「迹門の中心」である事は、どなたもよくご承知の事と思いますが、さて、その内容はと言うと、「法華経以前に説かれたお経は、皆、方便の教えであって、今これから説く法華経だけが

唯一、真実の教えですよ」と言う事なんですよ。その具体的な根拠は後で述べますが、要するに、お釈迦様の
本音が、余す所無く説き尽されているのは、法華経だけなんだ。と言う事です。これは「方便品」の冒頭を拝めばよく解る。つまり、法華経以前のお経におけるお釈迦様のご説法のパターンは?と言えば、先ず最初に、お弟子やご信者の質問(悩み事相談)から始まる。それを受けて、お釈迦様がご説法(アドバイス)をお始めになる。これが、通常のパターンであって、「随問而説」と言う。或いは「随他意の法門」とも言う。薬に譬えれば「応病与薬」とでも申しましょうか。

それに対して方便品は、その冒頭に何とある?「爾時に世尊、三昧より安として起って舎利弗に告げたまわく」でしょう。誰からの質問も待たずして、お釈迦様の方からすすんでご説法を始められた。これを「無問自説」と言う。或いは「随自意の法門」とも言う。だから、「お釈迦様の遺言」と言っても過言ではない。それ程、大切な法門が説かれているという事ですネ。

それから次に、ひとつの事件が起こります。それは、お釈迦様がこれからご説法をお始めになるという直前に、
ナント五千人もの人達が、席を起ってしまうのですよ。所謂「増上慢」の人達ですよね。「未だ得ざるを得たり」と自分で思い込んでいる人達です。その場に居た舎利弗あたりが、「彼等を止めましょうか?」と尋ねますと、お釈迦様は「退くも亦佳し」と言われた。更に「諸々の枝葉無く、唯、貞実のみ在り」とも申された。これは、真実の法華経の法門を聴くに値する者は、仏陀を最後まで信じて、付いて来る者だけに限られる。という事でしょう。

それ程、大切な法門(前代未聞の教え)が説かれているという事でしょうね。

(有り難いお経)
ところで皆さん、「有り難いお経」と言う言葉をよく耳にされた事がありますよね。口にする人も、耳にする人も、
一体、何がどのように有り難いのか、よく解っていないんじゃないかな?と思うんですよ。元来、「有り難い」という言葉は、「有る事(存在)自体が、難しい」という意味でしょ。つまり、希少価値が有るか、無いかの問題です。

方便品には「第一希有、難解之法」とあるでしょう。「希有」とは「希に有る」という意味です。希に有るという事は、「滅多に無い」という事ですから、即ち「有り難い」という事になるのです。

いいですか、「法華経が有り難い」と言われる所以は、他の如何なるお経(法華経以前に説かれたあらゆる諸経)にも、説き明かされていなかった「前代未聞の貴重な法門」が存在するからなんです!

それは何かというと、方便品の「二乗作仏」と寿量品の「久遠実成」という大切な法門なのです。この法門の中身が解らなかったら、「法華経が有り難い」なんて言えないはずなんですよ。仮に言えたとしても、それは、錯覚(自分勝手な思い込み)か、もしくは、いい加減な無責任発言ですね。

さて、その「二乗作仏」と「久遠実成」ですが、「久遠実成」は寿量品の法門ですから、(その説明は明年にさせて頂くつもりですが) どちらの教えも「一念三千」という非常に素晴らしい法門が、そのベースになっております。

実はこの「一念三千の法門」こそが、法華経が唯一、真実の教えであり、それ以外の諸経が、皆、方便の教えである。という事を証明する事が出来る、類い希なる宝物なのです。

今日のテーマは方便品ですから、「二乗作仏」に就いて説明を、この後で少し紹介させて頂きましょう。

(方便品の中身)
じゃあ、「何故、法華経でなければならないか・何故、法華経だけが真実か」と言うことについて、これを理解しなければ、いくら熱心に朝晩、方便品を読んでみても、一生、解らないまま終わってしまうんですよ。勿体ないですよね。折角生まれて来たんだよ。そして折角法華経にご縁が有ったんだ。そのご縁が有った皆さんが、毎日唱える「方便品と寿量品」位は、何が説かれて居るか位、細かなことは解らずとも、その骨子だけは掴んで娑婆を立たねば勿体ないでしょう。その「方便品と寿量品」の話は、対でする事になりますけれども、方便品のね、お釈迦様の一番言わんとしたところ、お釈迦様が、この方便品で皆さんに何を訴えたかったかと言うことを、もし一言で言うならば、極々簡単な言葉で言うなば、いいですか。「誰でも佛になれますよ」と言う事を言いたかったんです。誰でも佛になれますよと言うことを伝えたかった。ね、じゃあ、もう一方の寿量品では何を言いたかったかと言うと、今度はね、「何時でも皆さんを佛にして見せますよ」と言うことを訴えるのが寿量品なのですよ。この違いが解るかな。「誰でも仏になれる」と言うことは、その主人公は人間なんですよ。人間が努力をすれば仏になれると言う「成仏の可能性」を説いたのが、是が方便品。だから空間的な横の広がりを全部網羅したと言う事ですね。それに対して寿量品は今度はね、誰でも仏になれますよでなくして、「いつでも皆さんを仏にして見せますよ」と言う話だから、是は誰が主役かというと、仏様が主役なんですよ。「方便品は人間中心の教え」 「寿量品は仏様中心の教え」なんですよ。

いつでも仏にして見せますよと言うことは、お釈迦様が人間として、娑婆世界に生まれた時だけではなく、お釈迦様以前の衆生も、お釈迦様滅後の衆生も、永遠に皆を救済する用意が有りますよと言う事を言ったのがこれが寿量品なんですよ。と言う事は、方便品は誰でもだから空間的に横の広がりを全て網羅している。寿量品は今度は時間的に縦の軸を網羅して、何時でも、誰でも救ってやるぞと言うのが、これが寿量品の世界になる。だから方便品は仏様の智慧を説いた教えなんです。それに対して寿量品は仏様の大慈悲を説明した法門なんです。だから又、方便品が解らねば寿量品が解らないから、小倉上人の仰っるように、まず第一は方便品なんですね。


(二乗作仏の法門)
そこで、その方便品は、今申し上げましたように誰でも仏になれるよ、と言うことを説いたんだと言うこと。今の時代でこそ「誰でも仏になれる」と言えば、「そんなこと当たり前じゃないか」と思うかも知れないけどね、法華経が説かれるまでの、この赤い線からこっち(方便)のお経ではね、仏になれない類の人が、具体的に存在したんですよ。其れは何かと言うと、生きとし生ける者(衆生)を、人間と畜生に分ける。その中で人間は仏になれるけども、畜生は仏になれないと切られたんですね、皆さん人間で良かったよね。

じゃあ、人間なら皆、仏になれるかと言うと、今度は男はなれるけど、女は仏になれないと言われた。これが方便のお経。皆さんね、念仏・禅・真言の檀家さんだと、此処でアウトですよ。女人は仏になれないんですよ。その理由が色々とお経にも書いてある。「女人は地獄の使いだ」とかね、「蛇の生まれ変わりだ」とか、甚だしいのは「悪魔の使いだ」と言うんですよ。すごい表現でしょう。又面白いことにね、、こうも言っている。そとづらは、外面ですね。「外面は菩薩に似たれども、内面は夜叉の如し」と書いてある。ご婦人は外面は当たりが良い、見た所、菩薩に見えるから、つい、うっかり入り込んでしまって、後で本心を見たら、実は鬼だったと。その菩薩のような外面につられて、えらい苦労している殿方も沢山居るわけですよ。世の中にはね。そん風に女人はあまり良いイメージを持たれなかったんですね。女人成仏は許されなかった。「女人は垢穢にしてこれ法器にあらず。」汚れているから法の器ではないとまで、提婆品にも書いてあるでしょう。女人は駄目だったの。男しか成仏出来なかったのです。今日は、ご婦人が多いから八割皆、アウト。法華でなければ、皆アウトなった。もう、此処で気の毒だけれども、さようなら。という事になる。

それじゃあ、男で良かったと思うけれども、男の中でも、善人と悪人があって、善人は良いけど、悪人は駄目だと言うんですよ。じゃ、悪人て何だ? 悪いことをする人を悪人というのじゃないよ。法華で言う悪人とは、「法華経を学んで仏になれる、そう言う立場で有るにも関わらず、法華経の法門を学ぼうとしなかった人。ご修行を積もうしなかった人。」これを総じて悪人と言う。「以悪業因縁・過阿僧祇劫・不聞三寶名」とあるでしょう。あの悪業の因縁とは、求道心を起こさなかった人の犯した(不信の咎)の事です。そ咎を犯した人達は皆悪人と成る。これも全部駄目なんです。その善人だけが成仏出来た。仏様の教えを求める人だけが成仏出来た。

今度はその善人の中にも、菩薩と二乗がある。二乗は声聞・縁覚で、舎利弗のような人達ですね。その中でも菩薩は成仏出来ても、二乗は駄目だと言われた。だから法華経に来るまではみんなアウトだったんです。菩薩以外は。

ところが法華経には、「提婆品」で、龍女という畜生も成仏が証明され、そして龍女だから女人の成仏が証明された。又、「提婆品」の前半では、提婆達多の悪人成仏が証明され、そして、この「方便品」で二乗の成仏が証明されたと言うことは、これは仏教の世界の中に於いては、青天の霹靂。今まで、「前代未聞の法門」だったと言われるんですよ。今だからみんな平等だと思うけれども、法華経を説くまでのお釈迦様は、女人の成仏をお認めにならなかったんですね。ところが法華経に来て初めて、畜生の成仏も、女人の成仏も、悪人の成仏、そして絶対に成仏出来ないと言われてきた、舎利弗のようなや「声聞や辟支仏という二乗」も成仏を認める。

舎利弗や目連と言う人達、所謂、二乗はなんで成仏が出来なかったか解りますか? 彼らは仏様の教えを学ぶことに於いては、秀才的な頭を持った人達なんだけど、賢すぎて成仏できなかったんですよ。どう言う事かと言うとね、「賢いけれども、冷たいんです」よ。世間にもそう言う人が居るでしょう。あの人、もの凄く賢いけど冷たい。これは仏になれないんですよ。賢過ぎるから人の人の痛みを感じないんですよね。人が「お腹が痛い、頭が痛い」と苦しんで居ったら、この舎利弗はどう考えたか。「頭が痛い? それは頭が有るからだ。頭を取れば痛みは取れるよ。」この一言で片づける。「生きているの嫌になった?」 「それは、あなたが生きているから嫌になるんだよ。死んだら直るよ」と。禅宗では今でもそう言う発想を持ってますよ。「身体の調子が悪くてね、」と言うとね、禅宗のお坊さんは何と言うか。「病なんて物は死ねば治る」と。「リュウーマチでも癌でも、どんな病気でも死んだら治るんじゃ」と言う。「死んでも治らん心の病こそ問題だよ」と禅宗では言うんですけどね。これは我々も心しなきゃならんことですね。確かに一理ありますよね。でも、治るものなら、生きている内に治したいですよね。


(賢く、且つ、優しくあれ)
舎利弗は賢こ過ぎたが為に、物事を全て、道理で割り切る考え方に偏ってしまった。その反動で、情に欠ける部分が、お釈迦さまには見えてきたのでしょう。二乗が成仏出来ない理由は其処にある。だからそ、「優しさを持て」と言仰った。菩薩は賢いのみならず優しいんですよ。皆さん。だから法華経で目指す人間像は、「賢くあり、かつ優しくあれ」と言うんですよ。これが法華経の目指す人間像。お祖師様は生きたお手本ですね。どっちか一つ欠けても駄目。賢いけども冷たいと言われる人も駄目。優しいけれども何を考えているのか判らんと言うのも駄目。賢くあり、かつ優しくあれ。これが菩薩。この菩薩だけが成仏出来ると言われたのが、これが法華経の法門なんですね。

その法華経の法門の、何処に成仏出来る要因が在るかと言う事を決定づける結論はね、時間が迫って来たからもう、結論に入らせねばならないんだけれども、ここで言えることは、良いですか。どのお経の中にも在るように錯覚されているところの、仏に成るべき種、これをね、「仏種」と言うんですね。仏種。解りますね。例えば今日、私が皆さんにお話しをしたようなことは、この種に当たるんですよ。仏種。で、この仏種が、良いですか。法華経にのみ、宿っていて、法華経以外の念仏・禅・真言には、悲しいかな仏種は宿らないんだとまで、お釈迦様が宣言遊ばされた事実が方便品にあると言う事なんですよ。これを良く考えねばならない。これは卵に例えと判り易い。精子の宿らない卵を無精卵と言い、精子の宿る卵を有精卵という。ね、無精卵は調理して食べるには差し支えないけれども、夜店で買った卵、「これ暖めたらヒヨコが産まれるよ」と騙されて買って帰ったら、無精卵は如何に母親に暖められても、腐ることはあってもヒヨコは産まれないね。それと同じで、念仏・禅・真言はどんなに熱心にご修行しても、それは地獄に堕つることはあっても、成仏は絶対にあり得ない。その根拠は、他のお経には仏に成るべき種が宿って居ないからだと言うこと。これが方便品に説かれているのです。このこと皆さんね、死ぬるまで絶対に頭に留め置く必要がある。それが解ると世間の人に、或いは、お遍路さんに行っているお友達に、「あなた、止めた方がよろしいよ」と言うた時に、「何故ですか?同じお釈迦様が説いた教えだから、一緒でしょ。いいじゃないですか。私はお遍路さんで頑張るから、あなたは唱題行で頑張って下さい」と。言われて帰って来るような情けない思いをしなくて済む。その時に「私は詳しいことはよく解らないけど、あなたの真言では仏さんに成る種は無いらしいよ」と言う根拠までは、必ず言って差し上げて下さい。

これが報恩抄で言う「日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり」ですよ。これがやがてはその人が「無間地獄へ落ちる道」を閉ざす事になるんですよ。そのお手伝いをしなかったら皆さん、「法華の信者」じゃないよ。で、向こうがそれに関心を示して、「何だと。私の信じる真言には仏に成る種が無いというが、それは本当か?」と更に突っ込んで聞いて来たら、皆さんそこで、がっぷり四つに組まんように。そこでがっぷり四つに組んだら失敗をする恐れがあるから。「其処までは解っているんだけれども、それ以上に詳しいことは解らないから、菩提寺に一緒に行って、和尚さんにその話しを聞きに行こう」と言って、その人をお寺に連れてくれば良い。皆さんは、縁無き人に法華の縁を結べばそれで良いんですよ。そこから後は、菩提寺の住職の出番だ! その専門の事に中途半端に口を挟んで火傷をすると具合が悪いから、只、「仏種が有るか無いか」と言う結論だけで良い。その事は認識しておかないと、皆さんの説得力がない。「何か法華が一番良いらしいよ」と言うと、「うちの住職も、真言が一番良いと言うてはる」と、反論される。そんな、水掛け論に終わらせてはいけない。「絶対に法華経以外のお経では仏になれない!」と言う事までは、言うて下さい。はっきりと。言わねばならん。言った事によって相手が怒ったら、それで縁が結ばれるんですよ。第一歩の結縁が出来るんですよ。そっから先は住職に任せると言うことですね。


(正直捨方便)
そこでお釈迦様は、その種の宿らない方便の教えをどう扱うかと言う事に付いて、これは方便品の中の言葉で、有名な言葉だから覚えておいて下さいね。お釈迦様がお経の中で仰っている。その方便の扱い方をどうするか。それは「正直に方便を捨てるんだ」と仰っている。そしてひたすら、この上もない無上道と言う法華経を説いて衆生を導くんだとと言う事をお釈迦様がはっきりと、方便品の中でお示しになっている。という事は、説いたご本人であるお釈迦様が捨てねばならないと言われた方便。其れが念仏・禅・真言だ。

そうすると、四十余年もの間ご苦労をされて説かれたこれらのお経を、どうしても捨てなければならない深刻な事情は何処に有ったかと言うと、今申しましたように、それらには、「種が宿っていないから、仏種が内在しないからだ。だから是は使い物にならないから捨てなさい」と言われたのです。これは肥料のような物でね、収穫は法華経に有ると言うんですよ。どんな念入りなお百姓さんでも、収穫を終えた米俵に去年の肥が残って居るから念の為に掛けておこうと言う馬鹿は居ないでしょう。それをしようとしたのが、浄土宗の法然上人だ。法然上人はお釈迦様が、もう要らないと言って捨てたこの念仏を、自分がもう一遍引っ張り出して、選び出した。だから法然さんの著述の代表作は「撰択本願念仏集」と言うでしょう。念仏法門を自分で選んじゃったんです。「それはおかしいだろう」とお祖師様は言う。「自分達には選択権は無いはずだ」と。お釈迦様がひたすら、この無上道である法華経を説いて衆生を救おうと言われたんだから、この法華経だけを、我々は頂戴すれば良いはずであって、いわば念仏・禅・真言はもはや必要ではい。

皆さんもお料理をする時、骨とかガラとかそう言う物をごみ箱に捨るでしょう。念仏はそのようにお釈迦様によって捨てられた類の法門だ。それをもう一遍、ごみ箱をあさって使えるだろうかなあと思って引っ張り出して来るのが、法然さんのしたこ事だと。これは師匠に対する反逆行為ではないかと。だから法然坊は世間を惑わす罪は免れないと言って、「念仏無間(地獄)」と仰った。方便は捨てねばならない。その方便教を捨てねば成らない事情は、仏種が宿るか宿らないかと言うところに決定的な違いがあるんです、と言う事であります。

時間が来ましたので結論に入りますと、この法華経にのみ仏種が内在すると言うことが説かれたのが、これが方便品の一番の狙いであると言う事。それを明らかにする事によって一代仏教をお釈迦様ご自身が整理されたんだ。成仏出来るお経と出来ないお経と整理された。諸経を整理して統一するのも方便品の狙いであった。今度、次の寿量品になるとお経の統一が出来て、整理が出来ると今度はお釈迦様が偉いのか、阿弥陀様が偉いのか、薬師様が偉いのか、大日様が偉いのか、沢山いる仏様を整理、統一する必要がある。その仏様の整理・統一をしたのが寿量品なんですよ。教えの統一を方便品でして、それから仏様の統一整理を寿量品ですると言う。次の所に入って行く手順に成るのが荘言う事です。だから日蓮聖人が「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊、諸宗無得道。法華独一成仏」と仰った。この諸宗批判は、繰り返して申しますが、日蓮大聖人の個人的な喧嘩ぱっやい性格から出たものでなくして、偏にこの方便品に帰依するんだと。お釈迦様が他のお経を捨てて、法華経だけを説くと言われた。故に「是非これだけは伝えねばならない」と言う純粋な仏弟子としての、その情熱から出た言葉が、「諸宗無得道・法華独一成仏」

だから仏教の世界で善なるものは一つで良いんです。これを間違わないように! 方便品の中でお釈迦様が仰っている。「十方仏土の中には、唯、一乗の法のみあり。二も無く又三も無し」 法華経のみ、衆生を救う法として存在する。唯有一乗法、二もなく亦三なし。日蓮大聖人のお言葉で言えば、「汝早く信仰の寸心を改めて、」その後には何と有りますか?「速やかに実乗の一善に帰せよ。」でしょ。善は一つで良いんです。「天下万民諸乗一仏乗となって」その後、「妙法独り繁昌せん時」ですね。「念仏も禅もお互いに頑張りましょうよ」なんて法門は日蓮教学には無い。そこを良く理解してこそ、方便品と言うお経を、皆様が頂戴したと言う事に成ると言う事であります。そこで、方便品の結論は、「何故、法華経でなければ成らないか」と言う事を皆さんに訴えたのが、この方便品のメインテーマであったと言う事になります。

小倉上人が数珠を擦って居られます。「もうそろそろ、止めろ」と言う坊さんの世界の合図でございますので、今日は此処でお暇乞いをしたいと思います。もし又、招いて頂けるようで有れば、来年度は一番大事な「寿量品」のお話しを申し上げたいと思います。長時間に亘りましてのご静聴誠に有り難うございました。

 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

本講演 テキストデーター作成 秦孝悦上人


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