平成12年度仏教文化公開講座  「現代に法華経を読む」
大阪府池田市 本養寺住職  難波宏正上人
プロフィ-ルS32年生れ
立正大学・大学院修士過程終了(宗学専攻) ・求道同願会常任委員・法華会評議委員等
湯川日淳・久保田正文・藤井日達の各師に師事
小著「止ミネ善男子」・「本化信行論」・「末法下種論」・「唱題の理念」 「法華経の有り難さ」・「楽しい人生・上手な臨終」・「我が師・我が道」

 
講演
「現代に法華経を読む」(三品経シリーズ・その2「寿量品」)
                    


お題目三唱
 
(挨拶)
只今、秦孝悦上人の方から過分なるご紹介を頂きました、大阪の本養寺というお寺から参りました難波宏正と申します。
小倉上人とのご縁を頂きまして、只今ご紹介の中にもありましたように、日蓮宗の大切なお経として、常日頃檀信徒の方々が唱えて居られますお経の中に、方便品というお経がございます。それからその次に寿量品のお自我偈と言うお経がございますね。又其の次に大切なお経として数えられますのは、第二十一章神力品と言うお経でございます。
この三つのお経を宗門では「三品経」とこのように称しておりますが、東京でお目にかかりました折に、小倉上人が「この三品経の解説を秋田県で三ヶ年に亘って是非やってみないか?」と、こう言うお誘いを頂きました。
昨年初めて秋田県へ寄せて頂きました。昨年は秋田県の北部の方のお寺にお参りさせて頂きました。で、本年は秋田県の南部ですか、湯沢市という南部のお寺。先程車の中で秦上人と、「まあ、三品経のシリーズだけれども、おそらく去年お越し居ただい方々は北部の方々だから、今日此の南部の会場にはお見え下さらんでしょうね」と言っておりましたら、「いや、何人かはお見えになっていますよ」ということなんですよね。因みに去年北部のお寺でお目にかかった方はどの位お出でられますか?ああ、有り難いですね。非常に心強い感が致します。今日はそれの二回目という事でございますけれども、皆さん、今日は本当に雨の中、足下の悪い中お集まり頂きまして、どうも有り難うございます。時々マイクが入ったり入らなかったりするようですけれど、聞き取れない処は適当に其処は想像して下さい。(笑い)
今日も、承りますと二百人を超える方のご参拝だと言うことで、私も色々なお寺で話しをさせて頂く機会が有るけれども、かぶりつきでご婦人を拝見するのは初めてでね、あまり目の前にお出でになるから、そのかわり居眠りしたら直ぐ分かる。是非とも目をパッチリ開けて最後までお付き合い頂きたいと思います。まあね、冗談ばっかり言って居るとそれこそ時間が詰まって最後、大切な話しが出来ない形で終わってしまいますので、早速本論に入って参りたいと思います。あの、足の痛い方は気になさらないで、どうぞ崩して下さい。あ、もう言う前から崩して方もいらっしゃいますが、あまり気にすると話しが耳に入りませんのでね、耳に入っても頭に入りませんので、どうぞお楽になさって下さったら結構かと思います。
 
(去年の確認)
ええ、それで、先程手を挙げて頂いた方は、昨年も来て頂いたわけでありますけれども、当然の事ながら今年初めての方も大勢お出でになるわけですが、何故この方便品や寿量品やお自我偈と言うお経の話しを、殊更取り上げてしなければならないか?という事についてのお話しを先ず以って申し上げておきたいと思うのです。そもそもこのお経というものは、いかなる物かという認識が案外仏教国日本と言われる、此の日本の中でも正確に把握していない現実があるのではないかと思われますね。皆さん方ね、例えばお孫さんのような若い方から「お婆ちゃん、何時もお寺で上げているお経、仏壇で手を合わせて拝んでいるお経って、あれは一体、何ですか?」と漠然と尋ねられたら、皆さんどのようにご説明下さるかなあ。あまりにも、初歩的な事。自分では解り切っているようなんだけれども、正面からポット聞かれると、答えにつまる場面ってございませんか?皆さん方は良く解りませんけど、私のお寺のお檀家さんのお婆さんなんかね、お孫さんに「お婆ちゃん、お経って何?」て聞かれると、お婆ちゃんがどう答えるか、私、興味があるから黙って聞いて居ると、「ああ、お経はなあ、難しいなあ」とこう言う。お孫さんは、お経の中味ではなく、「お経て何?」と聞いてるんです。ところが、お婆さんは「とにかく難しいんや。なあ、あんたも大きくなったら解る。」と言ってごまかす。この説明では解らないですよ。お婆ちゃんは大きくなりすぎても未だに解らないものが、お孫さんが大きくなっても解るはずがないでしょ。それはまやかし。やっぱりきちっと家の方に、若い人、お孫さんに、「信仰の相続」というものをして頂かねばならんと思うのであります。
ですからお経というのはね、漠然と聞かれたら答えに困るんです。だからこそ、ひとつずつ確認していきたいと思います。
 
(お経とは)
先ずお経というのはね、「誰が説いたものか。」それから次ぎに、「誰に説いたものか。」それから最後にそのお経が「何のために説かれたか。」と言う、この三つのテーマに分けて考えますと、説明がしやすいと思うんですよ。お経というのは誰が説かれたと言うことになっていますか。お釈迦様ですよね。仏教の開祖お釈迦様。これは小学生でも、頷く話しですよね。お釈迦様が説かれた、つまりお釈迦様の御説法。そのお釈迦様の御説法の記録が文字として留め置かれたのがお経ですよね。
私共は、お釈迦様が亡くなられてもう三千年近く立ちましてからこの世に生まれておりますから、直接お釈迦様の御説法を聞くわけに行かないですよね。先ず時代が違う。と同時にインドに生まれていない、日本に生まれ居りますから、国が違う。時間的にも地理的にも離れておりますから、お釈迦様の御説法を直接聞くわけに行かない。その為にお釈迦様は御説法を、後々の時代にまで語り継ぐように託されまして、弟子が、これを、昔は文字がなかったから、口伝で、(口伝えで)言葉で伝えていった。で、後に文字が出来上がってきてから、お経を文字に書き記して留めるようになったわけですね。で私共は、お釈迦様の御説法を直接拝聴する事出来れば、これほど有り難いことはないけれども、今申し上げましたような事情で直接聞くわけに行かない。だったらお釈迦様の御説法を聞く縁がないのかと言うとそうでなくして、今申し上げましたように、お釈迦様の御説法は文字として記録に留められておりますのがお経ですから、皆さんはお経本を広げると、その中にある文字を追っていきますと、お釈迦様の御説法の再現がその場で出来ると言うことなんです。お釈迦様の御説法を聞こうと思えばお経を読まなければならない。
つまりお経というのは、お釈迦様が皆さん方に自分の教えを伝えたいという思いで説かれた説法ですから、お経を通じてお釈迦様の心に触れていくという方法しか残っていないわけですよ。或いは皆さん方が直接お経も読まれましても、漢語で書かれて居るから、発音ばかり聞いても意味が取れないでしょう。と言うと失礼か解りませんけれども。皆さんね。毎日「自我得仏来・所経諸劫数 ・・・・・速成就仏身」間で、ああ、終わったと思うけど、「お婆ちゃんそれどういう意味?」と孫に聞かれたらどうする。又、「大きくなったら解る」と言うて誤魔化す?解らないまま死んでいったら勿体ないからね、せめて何が説かれているかを私がご説明申し上げましょう。
 
(お経の読み方)
お経を読んで見た所で漢文ばかりだと意味が取れないんですよ。じゃ誰に尋ねればいいかというと、それがお坊さんですよ。お坊さんと言うのはお釈迦様のお弟子ですからね。お坊さんの本来の仕事は「お釈迦様はお経でこういう事をおっしゃってますよ」と言うことを取り次いで下さってこそお坊さんでしょう。だから世の中にお坊さんが必要とされる第一の要因は何かと言うと、「お釈迦様の御説法を解説して下さるから有り難い。」ですよね、その仕事を忘れ去って終ったら、お坊さんの存在価値が問われて来ると言うことになりかねないわけですね。
つまりお経というのは「お釈迦様の説法の記録ですよ」と言うことが一つ確認出来ましたね。そうすると、そのお経はどのような人を相手に説かれたのだろうか、お釈迦様が誰のために説法されたんだろうかと言うことですが。どなたか?皆さんね、解かっているのに言わないのは、奥ゆかし過ぎるんですよ。解かってるんだけど、目立たないようになさってるんだろうと思うのですが・・・・・。
 
(お経の始まり)
お釈迦様が直接説法をされた相手は、お釈迦様のお弟子様と、お釈迦様を慕って尋ねて来るこ信者様。お寺で言えばお檀家さんの様な方。お釈迦様の御説法を聞きに来られる方を相手に、お釈迦様が法を説かれたわけでしょう。だからお釈迦様の所に人が集まって来るには色んな問題がありまして、「実は今私はこう言う問題で悩みを抱えて居ります。これにはどう立ち向かえばいいでしょうか?」と言って質問しに来るわけですよ。だから質問の種類は千差万別ですね。健康上の問題の悩みの人も有れば、経済的な問題で行き詰まった人もある、或いは家庭の家族関係の人間関係のことで揉めている場合もある。色んな悩み事がありますけれども、それぞれの悩み事を抱えてお釈迦様所に救いを求めて来るわけですね。それに対してお釈迦様は「それは此処に原因がにあるからこの様にしなさい。そうするとあなたの将来は良い方に展開するでしょう。」と言ったような御説法されたわけですよ。だからお釈迦様のお経の数が膨大な数に増えていったのは、側に集まってきてお釈迦様に質問した人の数が多かったと言うことですね。で、又お釈迦様に対する質問の種類も多かったと言うことです。みんながみんな健康上の問題だけの、悩みがだったらそれに答えたお経は一つしかなかったはずですね。けれども経済上の問題や、人間関係や色んな事があって、質問の種類が多様であった為に、それに一々お答えになるからお経の数も増えた来たという事です。と言うことはお釈迦様の説法の相手は誰であったかと言うと、目の前の生きて居られる人を相手に説法されたと言うことですよ。
これは今から思えば当たり前のことなんだけれども、非常に大切なことなんです。つまりお釈迦様の説法の相手というのは、今この世に生きている人なのです。これが二つ目。
 
(誰の為に、何の為に)
じゃ何の為に生きている人に説法をしたかというと、さっきの話しの中に出ましたように、その人が「如何に楽しくこの人生を全うするか」ということ。その道を示すために、その道を教える為にお釈迦様は御説法をして下さったわけですよ。つまりお釈迦様がお経を説かれた相手は、現実にこの世に居きる人であったと言うことが問題ですね。それとその目的は何かと言うと、せっかく生まれて来たこの人生なんだから、どうせ一生終わるンなら楽しく生きようじゃないか、幸せに生きようじゃないかと言うこの道を皆が模索するわけです。その道を説き示して下さったのがお釈迦様のこ説法だ! と言うことは、お経というものを三つの観点から見ると、誰が誰に何の為に説かれたかと言うと、お釈迦様が現実に生きている人の為に。その人々に幸せな人生を全うさせる為に説法されたんだ。と言う事に落ち着いてくるわけです。原点に返ると、お釈迦様の説かれたお経というものは、そう言うものだと言うことを先ず以って、皆さん方に第一に認識しておいて頂きたいことなんです。これはもう認識して居られることだろうと思うんですけれども、只現実の世の中はこう言うように解釈していない場面が多すぎると言うことですね。そう思いませんか?例えばね、今の、世間の人に「お経は誰が説いたんだ?」と聞けば、これは一般教養として「お釈迦様だろう」と言う位は分かりますね。で、そのお経は、「誰のためにあげるんだ?」と、その相手を聞くと世間一般の人はどう答えるでしょうか。お寺のご住職が来てお経をあげおられる姿を見て、世間の人は、まさか生きてる自分達にお経あげてると思ってないでしょう。みんな、死んだ親父の位牌に向かってあげてくれてると思ったり、家族が亡くなったときに、棺の中の親父の遺体に向かってお経を上げてくれてると思ったりしてませんか?世間では。と言うことはお経は誰の為に、その説かれたかと言うことが判からずに、誰のために唱えるものかと言う問いに対してはみんな「死人のためだ」と思って居るんですよ。死んだ人の為。ね、お経を唱えるのはお釈迦様が居られませんから、お坊さんですよね。お寺のご住職がお経を唱える。だから皆さん方ね、お寺と初めて縁が出来るのはどんな時だ。それは先程のような話しのような悩みごとを抱えて、お寺の門を尋ねるのは、これは大分上級クラスですよね。大概そうじゃない。普段そんなこと感心がない。お寺に縁もない。
 
(初めての仏縁) 
初めてお寺に縁が出来るのは、身内に死人が出来た時。ご不幸があった時。その時初めてお寺の門を潜るんですよ。「家内が亡くなりましたので、お葬式をお願いします。」と言うてね、お葬式からスタートするんですね。つまり死者が出なかったら、お寺との縁がないと、言うようなこと。だから例えばお檀家の方に「早くお寺にお参りに来なさいよ」と言ったら、「いや、まだわが家では、誰も死んでおりませんから、お寺と縁がありません。忙しいから行けません」とこう言うでしょう。だからお寺との出会いというのは、必ず死人が出てからスタートすると言う傾向が有ることは否定できない。だって、皆さんね、お孫さんが「おぎゃあ」と生まれて、暫くしたら、何処へ行くかと、「宮参り」と言ってお宮さんに行くでしょう。「何で菩提寺に来ないんだ」と私は何時も言うんだけど。何故か、皆お宮さんに行くよね。
娘さんが二十歳を過ぎて年頃なったら結婚式をする。何処でするか?あのホテルの教会でウエディングドレスを着てみたいから、と言うだけの理由で、キリスト教の教会で結婚式をする。何時なったらお寺へ来る。いよいよ棺に入ってから「お世話になります」と、来るわけでしょう。人の一生の間に、仏教の出番は無いじゃないですか。お坊さんの仕事は「何時も死人相手か?」と、言う事になる。だから初めてお葬式に出かけて行ってお経を上げる。だからあの時のお経も、皆死んだ人に上げていると思っているんですよ、それが終わって七日七日満中陰、一周忌、三回忌と法事が続く。法事の時も、お経は亡くなった人の位牌に向かってあげてるというふうに世間では考えているようですね。だからお経は誰のために唱えるかというと、死人の為に唱えると皆思っている。当然の事ながら、そのお経に説かれている中味の内容について、生きてる人は感心を持たないですよ。「何か分けの解らないお経を住職が唱えてるなあ」とか、唯思うことは「早く終わってくれたら良いのになあ」或いは「ご馳走の来る時間なのになあ」とかね、そんなこと考えるでしょう。世間ではそうした人多いんですよ。その人の頭の中に何があるかと言うと、「よく解らないお経だけれど、和尚さんが唱えてくれるお経を聞いて、あの世の親父はきっと喜んで、満足してるだろう」と勝手に解釈してるんですよね。だから、誰のために唱えるかと言うと「死人の為に、ご先祖の為だ」と言うことになって来る。
世間の仏教に対する考え方、お経に対する考え方と言うのは、概ねそんなところではないですか。だからお経は死人の為に唱えるもんだ、その目的は何かというと、「追善菩提」菩提を弔う為だと言う。あの世に行った親父が、「成仏してくれるように」と言う事を望んで唱えて貰うんだと、その為にお坊さんに来て貰って、勿論お布施を出していると。これで良いんだとこう考えて居る。ところがですよ、よく考えて頂きたいのは、お釈迦様は実際お弟子やご信者に説法された時にね、お釈迦様が一番喜ばれた時はどう言う時かと言うと、その説法を聞いた相手の人達が、「成る程そう言う事だったのですか。お釈迦様の仰っていることやっと分かりましたと言って、理解出来たことをお釈迦様に報告した時、その時、お釈迦様は一番お喜びになるんですよ。例えば世間の人から、ご供養の品を頂かれた時に、お釈迦様が喜ばれる、そうすると、側で見て居ったバラモン教のお坊さんが「お釈迦様は、物欲がないなんて言って居るけど、信者さんから物を貰ったら大層、ニコニコして喜んでるじゃないか」と言って嫌みを言う人が居た。それに対してお釈迦様は「あの人から貰った品物に対して喜んで居るんじゃない、あの人が貧しい生活の中から、私に物を供養しようと言う気持ちになったと言うことは、私の説いた教えが理解出来て納得してくれたからに相違ない。だから私は、相手が理解してくれた気持ちを喜ぶんだ」と、こう仰っる。つまり喜ばれるのは、説法を聞いた人が理解して納得して呉れて、初めて喜ばれるんですよ。そう考えますと、良いですか、年忌法事をする時のお父さんは、普段若い時からお寺に行ってお説法を聴く習慣がありましたか?普段から法華経の勉強してましたか?それで良く分かって居ればね、ああ、お葬式で法華経を唱えて貰って、有り難いなあと言うのが分かる。けれども普段からお寺の門を潜る縁もない。或いは普段からお釈迦様のお経に興味もない。お釈迦様の気持ちも伝わっていない。と言う人が、死んであの世に行ったら急に判かるようになるのですか?それだったら私らは、早く死んだ方が幸せかも知れないね。この世で法華経の勉強をしない者が、あの世に行ってから法事で幾ら法華経を読んで貰っても理解出来ないでしょう。住職としても確認できない。お位牌に向かって法華経を説いて、判かるのか?返事をしろと言ったって何も言わない。だから其処に坊さんの方も、ついつい、安楽な道を選びまして、説法をしても、質問も返事も帰って来ない人だけを相手にしておいた方だけ気が楽になって来る。そうでしょう。檀家さん相手に説法して質問されたら困るもんね。それだけ勉強をしなければいけなくなるから。それだったら、物、言わぬ位牌が一番良いと、言うことなって来る。
お経お釈迦様からの皆さんに対する熱いメッセージなんですよ。お釈迦様が死者の為に説法をされたなんて言う教典は存在しませんよ。みんな生きてる人の幸せの為に説かれた。つまり、この人生を歩むべき、道しるべ。これがお経なんですよ。だから皆さんは、色んな悩み持ち合わせていますけれども、それを一人で抱え込まずに、お釈迦様に尋ねたら「お釈迦様はどう仰っるかなあ」と言う気持ちを、何故皆が持たないのかと言う事ですね。仏教徒でありながら・・・。それは皆さん、正しく宝の持ち腐れなんですね。仏教国日本に生きて居りながら、お釈迦様の教えと言う財産を頂きながら、それを活用しないんだから、又活用してくれるように住職に頼まないんだから、勿体ない話しですよ。お葬式と法事だけ来てくれればそれで良いと言うことでは、お釈迦様の心は伝わらない。
お経とは仏陀からの皆さんに対するメッセージだ。お釈迦様からの熱い心の語りかけだと言うふうに先ず考えて頂きたい。そういたしますと、お経は死んだ人が聴いて勝手に判かって成仏するんだなと言う解釈は成り立たなくなってくるんですよ。自分達が理解しようとする、その努力が要求されるんですね。と言うのはお釈迦様はお経をですね、みんなに判かって貰いたい、役立てて貰いたいと言う思いで説かれている訳でしょう。そのお経に対して、こちらが「難しそうだから判からなくてもいいわ」と言って、シャッターを閉じてしまったら、何ともお釈迦様に申し訳ない事をしていると思いませんか?自分達が、興味ないからと言って閉ざしてしまえば、お釈迦様の心は伝わらないですよね。お釈迦様は何時も何時も、我々のことを思っていて下さるのに、私達の方から感心を寄せない。非常に勿体ない話しですよ。去年も言ったかも知れないけど、例えばの話し、皆さんの家のポストの中に、まあ、そうだな、イギリスのエリザベス女王から手紙が来たとしよう。ね、まあ有り得ない事かも知らんけど、英国王室から手紙が来たとしよう。開封してみたら、英語で書いてあるから解らない。でも孫が帰って来るのを待って「あんた、この手紙を訳して頂戴」と言うのが、大体すじでしょう。ところが、封も開けずに捨ててしまったら、エリザベス女王に対して、失礼な事をしたことになる。もしかしたら、その内容は「来週ロンドンにいらっしゃい。ご馳走してあげましょう」と書いてあるかも知れんでしょう。その誘いをすっぽかす事になるでしょう。自分が読めなければ、読める人を頼って読んでもらえば良いんですよ。
だから昔はお寺の和尚さんは、山寺に寺子屋を建てて、そこで子供達に読み書きや、算術のそろばんを教えたりして居ったんですよ。わからんことがあったら和尚さんに聞きに行けば、漢字を読んでくれるし、或いは薬草の薬のことも知識があるし、と言うことで頼って居たんですけれども、そう言う活用を檀信徒は住職に対してしなくなったわけですよ。だから檀信徒がやはりご住職に対して、お釈迦様の教えを解説して貰うように働きかけなかったならば、仏法と言うものはますます死人の宗教に成って行く。そうであっては成らないと私は常々思っている。だからあちこち行ってそういう話しをして歩いてるわけでです。まず、そのお経というものは、何故解説する必要があるか、というとことの認識をですね、本日の寿量品のお話しに入る前に、受け止めておいて頂きたいと思います。そう言うことを良く認識してから聴くのと、「何か解らんけど難しい漢文の解説をしているなあ」と思って聴くのは違うんですよ。それだったら、学校の難しい授業を聴いてるのと同じ事なんです。それじゃいけない。話しの聴き方には二通りあってね、ただただ取りあえず座って聴いておれば良いわ、と言う気持ちで、無関心な心のままで聴くのと、あの人の話を通じて、お釈迦様の心を少しでも自分のものにしようと思って聴くのとでは、同じように聴いて居っても、吸収の仕方が違うんですね。折角此処にお集まりになったんだから、それを吸収して血となり肉となるようにして、栄養にして頂かなかったならば、今日の一日が無駄になるなあと言うふうに思うわけでございます。
つまりお釈迦様のお経というものは、決して死人の為に、死後の成仏・菩提を願う為だけに説かれたもので無いと言うことですね。因みに法事をしたりする時のことを追善供養という言い方をしますね、或いはご回向と言いますね、あれはね、どう言う事かと言うと、追善と言うのは、善を追いかけると書くんですけれどもね、回向というのは回らし手向けると書くでしょう。あれは住職が唱えたお経が直接、亡くなった人の所へ届くんじゃないんですよ。そうでなくして、住職はあくまでも法事を勤める施主の家族の為に、お経を唱えて居るんです。お釈迦様の説法を再現して居るわけなんです。其処に集まった親類縁者の為に、お経を唱えて居るんですよ。つまり施主になる人、あるいは喪主になる人は、その場に集まった人々にお釈迦様の説法を少しでも聴いて貰う機会を提供した事になるわけですよ。だから喪主や施主は功徳を頂けるんです。功徳がある。その功徳は本来自分の物にして取り込んで良いんだけれども、その自分が頂戴する功徳を亡き先祖、両親にお使い下さいと言って回らし手向けるから、あれをご回向と言うんですよ。ご回向。まず自分が得た功徳が無かったら、相手に回らすこと出来ないでしょう。あの唱題行の後にも良く唱える回向文に「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と唱えるでしょう。何と書いてある?「願わくはこの功徳をもって」自分が得た功徳がなかったら回らすこと出来ない。相手に捧げることが出来ないから、先ず第一は自分が功徳を積むこと、その自分が功徳を積む中でも、最も望ましい功徳は、「ご住職に来て頂いてお経を読んで貰うこと」そのお経は死人に直接向けるお経じゃなくして、そこに集まった人々に聴いて貰うためにお経を読んで貰う。昔の葬式はね、法事もそうですけど、棺に向かってお経を上げないんですよ。棺を後にして、背を向けてお坊さんはそこに集まった人にお経を上げたもんですよ。皆、お経を死んだ人に上げると思うから、後の人はビックリするけどね。だってお経はもともと、生きている人の為に説かれた内容なんだから、そこに居る人の為にお経を唱えられた。そして、後で解説をしたんですよ。その解説を聴いて喜んだ親戚の人達の功徳は全部、お布施を払った喪主や施主に集まる。返って来る。その功徳を廻らすんですね。だからご回向と言うんです。だから皆さんね、ご住職に「ご回向お願いします」と言ったらおかしいですよ。ご回向は自分がするものですよ。施主がするんですよ。「私がご回向をするために、お経を上げて下さい」と言ってお願いするものですよ。だから二段構え。まずお経を上げてもらった功徳は、まず喪主や施主に行く。その喪主や施主の功徳を、亡きご先祖に廻らし手向けるからご回向と言うんですね。そこに「追善」と言う、善を追いかけると言う字が出ているのは、どう言う意味かというと、亡くなった御両親や、ご先祖が充分に仏法の修行をして功徳を積んで旅立した人ならば、あまりこっちから色々と心配しなくても、あの世で、良い所にいっておられると思うんですね。ところがそうでなくて、娑婆を立った御両親やご先祖で有ればこそ、親が出来なかった分、子供が功徳を積む、善事を為す、良いことをする、だから「追善」と言うんですね。善を追いかけて、親が出来なかった分だけ、こちらが善を作って、それを功徳としてご先祖に手向けるんだと言う意味ですね。そこで初めて「追善回向」と言う言葉が成立して居ると言うことですね。
良く使い慣れてる言葉でも、意味を判からずに使ってる場合が非常に多いようですから、その点は良く気を付け頂きと思いますね。だからお葬式の時に、お導師が唱える引導文と言うのも、そう言う意味があるんですね。これもちょっと前回話しをしたかと思うんですけれども、引導とはね、引っ張ると言う字と導くという字を書いて引導と言うんですね。これは略であって本当は「引出導入」と言う言葉の省略なんです。引出導入。引っ張り出して導き入れると言う事。これを略して引導と言うんですね。世間ではね、「もうそろそろあいつに引導を渡せにゃならな」と言う事は、諦めさせる事だと言うんでしょう。例えばね、東京大学を目指して勉強しる人にね、三年の夏休みにそろそろ引導を渡そうと言って、志望校を変えさせる人が居るけど、あれは引導じゃないですね。引導というのは、この引っ張り出して導き入れると言うのは、何処から引っ張り出して、何処へ導き入れるのかと言うと、「迷いの世界から引っ張り出して、悟りの世界へ導き入れる」という意味が有るんです。だからつまり、凡夫の世界から仏様の世界へ導き入れると言う事ですよ。これが引出導入の義、引導なんですよ。そのことを日蓮宗の引導文の中にある言葉で見ると「悟道の要句」と言う言葉が使われて居るんですね。悟道と言うのは「悟りに至る道」これが悟道。お釈迦様の悟りに至る道。悟道ですね。「要句」とは、その中の要の一句をですね、此処で貴方に伝えようと言う事ですよ。ご住職の引導文をよく聴いてご覧、「霊也、今汝が為に悟道の要句を示めさん。謹んで諦聴し善くこれを思念せよ。」今汝が為に悟道の要句を示さん。
私、子供時分に先代の住職に付いてお葬式のお供した。先代の住職がお葬式の時に「霊也、今汝が為に悟道の要句を示めさん」と、いつも引導を渡していた。私、学生時分に一度、車の中で先代に質問したんです。「今お葬式の時に亡くなったお檀家さんに対して、霊也(霊也と言うのは死んでしまった人)今汝が為に(あなたの為に)汝か為に悟道の要句を示さんと。悟りに至る道を教えてやろうと言うんでしょう。私その時に聞いたんです。親父さんなあ、そんなにいい話しだったら、何故で死ぬ前に聞かせてやらなかったのか。そう思いません?いい話しでしょう、悟道の要句なんて。悟りに至る道でしょう。こんな良い話しが有るんだったら、死んでからお前さんに今、それを伝えてやろうと言う訳?チョット遅いんじゃないかと。それだったら檀信徒が元気な時に、悟道の要句を伝えてこそ意味が有るんじゃないかと、そう思いませんか?」と、先代に質問したことがあるんです。その時、先代は一瞬黙りましてね、「その仕事はお前の為に取ってある。後はお前がしなさいと」こう言う。「ああ、そうですか」と。考えてみたらそうですよね。悟りに至る道、住職が知っていたら生きてる時に言うてやればいい。死んでから言うのは、ちょっと狡いんじゃないかと言って、私そんなことを親子の間柄だから話しをしたことがあるんだけれど、「それはお前がしろ」とこうなってしまったんですね。まあ、そう言う事ですよ。つまり、お葬式に唱える引導文も、結局は、迷いの世界から引っ張り出して、悟りの世界に導き入れるという事ですから、つまり悟りの世界、成仏の道を教えるわけですね。仏様になれる道、成仏というのは死ぬことではないですよ。時代劇を見ていると侍が相手を斬りつけておいて、「迷わず成仏してくれよ」と言うでしょう。よく言うね、自分が殺しておいてね、迷わず成仏しろ、と。向こうは切られて殺されたのだから、迷うよね、それは成仏でないですね。まあ、あれは成仏してくれよと言うのは、化けて出るなよ位の意味です。本当の成仏とは、お釈迦様と等しい人格者になることを成仏と言うんですよ。お釈迦様と等しい人格者になることを成仏と言う。成仏の道を教えることがお葬式の引導なんです。だからまあ、はっきり言って、今日此処にお集まりの皆さん、私が一生懸命この話しをして居ったら、もうお葬式で引導はいらないかも知れない。本当に熱心なご信者はね、お葬式の引導は蛇足になるんですよ。それで良いんですよ。
私は自分のお寺の檀家には「あなた方のお葬式には、引導を渡さないからお寺に来てしっかりと法話を聞いておきなさいよ」と言うことを言うんです。だから檀信徒にとって最も喜ばしいお葬式は、お経をあげて貰うのはいいけれども、引導を渡してもらわないお葬式だったら、これ程素晴らしいことはないですね。そう言うお葬式を、私も住職をしている間に早くやって見たいなあと思うんですけれどもね・・・。これは去年もお話したかと思いますが、静岡の本山の貫首様に、そう言う立派な方が居られました。その本山に墓守のお爺さんがいて、貫首様は、そのお爺さんと普段から、法華經や日蓮聖人の話しを絶えずしておられたそうです。そうしたら、その人のお葬式の時には、敢えて汝が為に悟道の要句を示さんなんて事を言わなくても良いんですよ。貫首様は、どういうふうに引導を渡したかと言うと、「爺さんや、悟道の要句は(成仏の道は)普段から既に貴方には充分過ぎる位、言い伝えてある。だから、それを忘れずに、早うお釈迦様の所に行け!」と、やった。それで良いんですよ。住職にそう言われたら、太鼓判を押されたのと一緒ですからね、そんなお葬式をした人がね、静岡の三島に玉沢の妙法華寺というお寺がある。そこの貫首様が以前にそういうお葬式なさったことがあるんですよ。これは語り継がれておりますけれども、実に有難いお葬式だと思いますね。
 
(去年のテーマ)
お経と言う物がそう言うものだと言うことを認識して頂いた上で、今度はね、去年本光院さんで、お話しをさせていただいた内容に触れておきたいと思います。お経と一口に申しましてもね、どれ程の数が有るかというと、数え切れないほどの数があるんですね。それはお釈迦様が、三十歳で悟りを開かれて仏様に成られますでしょう。八十歳で亡くなられるわけですよ。つまり引き算をすれば五十年間説法された。そうですね、三十歳で仏様に成られて、八十歳で亡くなられたわけだからこの間、五十年間、お釈迦様はずっと説法を続けられるわけですね。五十年間の説法。これは、量から言えば膨大な数になりますね。それともう一つは、先程申しましたように、集まってくる信者さんの悩みの数だけお経が成立した訳だから、たくさんの数のお経になるのは当然のことなんです。その五十年間のお経を全てひっくるめて、「一代仏教」のお経と言うんです。お釈迦様ご一代の間に説かれた説法をお経と名付けるわけですよ。その中には法華経もあれば阿弥陀経もあるし、薬師経も、大日経も、般若心経も、大般涅槃経もみんな入って来るわけですね。ありとあらゆるお経、下に何とか経と付くのは全部お釈迦様が説かれたものだから、この五十年間の中に全部集約されてしまう。だからどのお経でもお釈迦様が説いた教えだと言うとには相違ない。だから世間の人は「どのお経だって一緒だ」と言うんですよ。「登る道は違っても目指す頂上は一つだ」と世間ではよく言うのは、そう言う所から来るんですね。「総て一人のお釈迦様が説いたんだから、どのお経を唱えても有難いに違いない」と。
 
(法華經の位置)
ところが皆さん、実はね、お釈迦様ご自身が説かれたお経の中に、大切な言葉があるんですよ。それはどういう言う事かと申しますと、お釈迦様は三十歳から説法を始められましたが、一つの転機を迎えられるんですね、その転機は、七十二歳の時に訪れるんです。七十二歳の時に一つの転機が訪れる。そこで、お釈迦様が仰っるには「四十余年の程は未だ真実を顕さず」と仰っている。これは他の人が言ったんじゃない。お釈迦様ご自身が仰っているんですね。「四十年余り、四十余年の程は未だ真実を顕さず。」「四十余年未顕真実」と。と言うことは、この三十から七十二までの四十二年間と、後の八年間では説いたお経の中味が違うと言う事ですね。説いたお経の中味が違う。お釈迦様の晩年八ヶ年で説かれたお経って何ですか?最後晩年七十二歳から八十までの間に説かれたお経は「法華経」なんです。つまりお釈迦様は「法華経が説かれる以前のお経は、四十余年の程は未だ真実の中味を顕していない」と、こう仰っているんです。真実を説いていない。と言うことは、これから後に説く八年間の法華経こそは、これが真実だと仰っているるんです。他人が言うのではなく、説いたご本人である、お釈迦様がそう区分けなさってるんですよ。それまでに説かれたお経は法華経以外のお経、これを複数形で「諸々のお経」と言っておきましょうか。「諸経」。法華経以外のお経全部。この中には念仏もあれば、禅もあるし、真言もある。解り易く言えば、様々なお経が其処に説かれている。その諸経と法華経は全く中味が違うんです。法華経が真実であると言うのは「法華経以前に自分が説いて来たお経は、この真実を顕す為の方便として用いたお経なんだ」と言うことをお釈迦様がこう仰っている。
この事実を、誰よりも強く世の中に取り次いで、訴えられたたのが日蓮聖人なんですよ。だから世間の人はうっかりすると「日蓮さんが勝手にこんな事を言って」と取ってしまうんですね。だから「日蓮さんは法華経だけが一番で、他は駄目だと言うが、あんな馬鹿な話しはない。だってどのお経だって、皆お釈迦様が説いたんだから、そんなことを言うのは我田引水、独善的、排他的だ」とこう考える人が世間に出て来るんです。ところが、もしそのまま日蓮聖人に対する批判を延長していったら、お釈迦様にその批判の鉾先を向けねばならない。お釈迦様がご自分で説いてこられた五十年説法の、後の八年の「法華経だけが真実で、その前半の四十余年の諸経は、つまり念仏、禅、真言のお経は方便だ」と言うようにお釈迦様が仰っているてるんですね。これは驚くべき事実ですよ。
仏教徒でありながら、この点に気付かない人が如何に大勢いる事か!と言うことですね。それは所詮「学ばざるの罪」です。無知の罪だと言う事ですね。知って居れば、「法華経でなければ駄目だ」と言う事は、自分が判断するのではなくして、お釈迦様の言葉によってそのことが納得させられる。だってそうでしょう。説いた当の本人である最高責任者のお釈迦様が、そのように述べて居られるのだから、仏教徒ならば、お釈迦様の仰っている事を受け入れなかったら、もはや仏教徒ではないでしょう。世の中には変わった人がおりましてね、「お釈迦様がそう言っておられても、私はそうは思わない」と言う人が居ますよ。それは仏教徒を止めて貰うより仕方がない。お釈迦様より偉くなってしまっているんだからね。だからお互いに、よく気を付けなければならないのは、我々の会話の中でも、仏教徒でありながら「お経に何と書いてあるか知らんけど、自分はこう思う!」と、もし言ってしまったら、、仏教徒で無くなってしまう。だから日蓮聖人は仏弟子として、お釈迦様の一信者として、この言葉を世の中に伝えるのが、ご自分の役目だ思われたんです。だから「法華経でなければ成仏出来ないよ」と言うことを盛んに仰っしゃったんです。と言うことは「法華経以外の教えは成仏が実現しない教えだ」と言うことになるんですね。不成仏の教え。成仏が実現しない教え。法華経はそれに対して、あらゆる人が、皆成仏が実現するという、そう言う教えになる。皆成仏の教え。皆が成仏できる教え。
 
(諸経との違い目)
「法華経以外のお経はどんなに頑張っても、最後は成仏できないんだと言う事が明かされている教え」それが「無量義経」というお経の「四十余年・未顕真実」の経文の意味ですね。これは皆さん、もの凄く重要なことですよ。この違いは大きいですよ!一生懸命に努力しても、最後に花が咲く努力と、努力が報われない努力とあるとこう言うんです。お釈迦様のお説に従えば、片方は成仏が約束されるお経で、片方は幾ら頑張っても成仏が出来ないお経とされている。そのことを日蓮聖人はご存じだから、他の信心をしている人に対して「あなた方、折角一生懸命やるのならば、方便のお経から離れて法華経に来なさい!」と仰っるのは、そう言う大切な意味があるんですね。皆さんね、成仏するというイメージがまだ何か漠然としているようだから、「それは大変なことだ!」という切迫感がないかも知れないですね。例えばですよ、職業安定所に行って、これから仕事を見つけるとしましょうか。仕事をしょうと思って意気に燃えて頑張ってやろうと思いますね、職業安定所に貼ってある職種ずっーと見て、どれが自分に合うかなあと思ってね、自分はこれがいいかな、あれがいいかな、と、自分の好みで選ぶでしょう。仏教徒も、私はこの般若心経が良いなあとか、念仏が良いなとか、お題目が良いと言って選んだんではいけないんですね。選ぶのも良いけれども、其処に大きな落とし穴がある。仏教で言えば成仏出来る、出来ないの分かれ目があるように、職業安定所で色んな職種を見て居ってね、じゃこの仕事にとしようと思って決めたところが、担当の窓口の人が、「ああ、この仕事されますか、それは結構ですね。但し給料は出ないかもしれませんよ。それでもよろしいですか?」と言って念を押されたら、皆さん、「ええ結構ですよ、私この仕事します」と言う人居ますか?元来、職業安定所に足を運ぶのは、収入を得たいからでしょう。そうすると、給料が出る仕事と、給料が出ない仕事とでは大きな違いになりませんか。死活問題ですよね。ただ働きをするのか?給料が無くてもいいのか?これは死活問題。それと同じでね、仏教の信心をするというのは、最後には成仏すると言うことを目指すのが当然だから、仕事をして賃金を貰うことが目的なんだから、そうなると賃金を貰えない仕事に就く人が無いように、成仏出来ない教えに付いて行く人は居ないはずなんですね。この道理が判かれば・・・
 
(方便品の中身)
そのことが、方便品の中で説明されているんです。それを解かりやすいように纏めて言うならば、「法華経以外の方便の教えには悲しいかな、お経の中に仏になるべき種が宿って居ないのです。」つまり「仏種無き教え」なんですね。「法華経にのみ、仏になるべき種が宿ってるんだ」と。お釈迦様が是を法華経で明かされたんですよ。だからこの法華経に縁を持てば、どんな人で成仏出来るけれども、この法華経に縁が無くて、方便のお経に縁のある人は、どれだけ熱心に信心しても、仏になるべき種がそのお経に宿っていないんだから、最後に成仏出来ないのは仕方がない!」とまで言い切っておられるるわけですね。お釈迦様がそう仰っている。決して日蓮聖人が言い出したことでないんです。
仏になるべき種と言うのは、これを卵に例えて言えば、有精卵と無精卵と言うのがあるでしょう。精子が宿った卵と精子の宿らない卵。料理して食べる分には余り差がないかもしれませんけど、精子の宿らない無精卵は暖めても腐ることはあっても、ヒヨコは出てこない。その無精卵と有精卵の違いがあるように、お釈迦様のお経と一口に言っても、仏になるべき種が宿っているお経と、幾ら頑張っても最後まで仏になれないお経がある。その違いは仏種が有るか無いかなんです。これは大きな違いがあると言う事ですね。この事を法華のお坊さんは、もっと世間に解りやすく説明して歩くべきだ!と私は痛感して居るんですよ。私自身、色々な所へ、法話に行く時は、必ずこの話をして歩くんです。
例えば、法華の信者さんが友人に「あんた法華の信心をしなさいよ」と言いに行っても、向こうはどう言うかと言うと、「あんたが日蓮さんを有難いと思っているように、私は、お大師さんが有難いと思っている。お互い様や。だから目指す頂上は一つだから、お互いに頑張って向こうへ行ったら又会いましょう」と言う。「成る程、それも、そうかなあ」と思って帰って来る。何をしに行ったか解らんね。その根拠は「お互いの信ずるお経に、仏種が有るか無いかなんだ」と言う事までは、皆さんは家族の人やあるいは縁のある人に伝えるだけの最低限の義務が有ると、私は考えて居ますね。法華のご信者で有れば、言葉にして必ず言って頂きたいと思います。それで納得して相手が解かればいいけど、本当に解からん人が出て来ますね。「そんな仏種が有るか無いかという事が、何処に書いてあるか見せて見ろ」と言われたならば、皆さん、それ以上深入りすると怪我をする恐れがあるから、そうなると「私は詳しいこと解からないので、お寺に連れて行くから、住職に一緒に聞きましょう」と言って、一緒に勉強すればいい。そうでしょう。そこから先は、お坊さんの出番だ。「お経に仏種が有るか無いか」と言う事までは皆さんの知識として頭の中に入れて置いて頂きたいと言うふうに思います。
そのことが説かれているのが、実は去年話しをした方便品なんです。だから方便品というお経は一代仏教の中で「何故法華経でなければならないか」と言う事を明かしているのです。それが実は方便品の狙いとする所なんですね。今日話しを致しますのは其の後の、最も大事な寿量品です。
 
(寿量品の位置) 
寿量品というものが、「唯一、仏になるべき仏の種の宿る法華経」の中で、どう言う位置を占めるかと言う事について、ちょっと触れておきたいと思います。この話をする時には、方便品と比較をする方が良く判かるんですね。方便品と寿量品。何処がどう違うかと言うことなんですけれども、一寸だけ難しい字を使うけれども辛抱して付き合って下さい。仏教用語は難しい言葉が出て来ます。出て来ますけれどもその言葉を分かるように説明さえすれば問題は無いんですよ。方便品では、「開権顕実」と言う事が説かれて入るんです。「開権顕実」という、字の意味からすると「権」と言うのは、「仮」と言う意味なんです。だから我々の日蓮宗の世界でも、お坊さんの位があって、一番高い位のことを、「大僧正」と言うでしょう。その大僧正の次の位を「権大僧正」と言うんですね。「仮の大僧正」と言う意味です。だからこれは仮のと言う意味ですね。この権と言う下にね、必ず「教」という言葉か有って、これを略しているんですね。と言うことは、意味からすると「仮の教えを開いて真実の教えを顕す」と言う事ですね。つまり方便品は何を説いているか。「今までのお経は仮の教えで、これから説く法華経こそ真実だと言う事を顕した」と言う事なんですね。だから「方便品」はお釈迦様の様々な数多いお経を、統一する所にその目的がある。「諸経の統一」お経の統一だった言う事ですね。
それに対して寿量品は、同じようにこの「開顕」の字を使いますけれども、今度は「開迹顕本」という仏教用語です。方便品では「開権顕実」の中で、「教」という字を略しておりましたけれども、今度寿量品では「仏」という字が略されて居るんです。「迹仏を開いて本仏を顕す」と言う事ですね。この迹仏・本仏と言う言葉は、皆さん、もしかすうると初めてお聞きなる言葉かも知れませんので、ちょっと後で判りやすく説明するつもりですが、平たく言えば「迹仏とは、肉体を持って印度に生まれて来たお釈迦様。つまり八十年の生涯を閉じたお釈迦様。それは迹仏としてのお釈迦様。それに対して、本仏と言うのは、その迹仏の本になる根本の仏様なんです。その根本の仏様が、まず最初に存在して、ある時、釈迦牟尼仏と名を語って人間世界に生まれて来た。それが今からおよそ三千年前の事。そのお釈迦様の事を迹仏と言う。つまり「お釈迦様は八十歳で亡くなってしまわれたと皆は思っているだろうけれども、実は私は死にはしないんだよ、永遠の過去から永遠の未来に至るまで本仏(根本仏)として、皆を救済し続けているんだよ」と言う事を仰っている。
法華経の寿量品以外のお経には、お釈迦様以前の仏様の存在や、お釈迦様滅後の仏様の存在と言うことは明らかにされて居なかったんですね。寿量品で初めてこの事を宣言されたんです。つまり肉体に制約のある八十年の生涯を持つお釈迦様の姿は仮の姿であって、仏様の本当の姿は永遠不滅の本仏なんだと言う事を仰っている。寿量品でそんな事が説かれているなんて、皆さんご存じでしたか?ご存じない。何年間お自我偈を唱えてきたのかな?皆さんの唱えるお自我偈の中に「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず、而も実には滅度せず、常に此に住して法を説く」と、お自我偈の中に有るでしょう。「為度衆生故・方便現涅槃・而實不滅度・常住此説法」あのお自我偈で、皆さんが何時も何時も唱えておられるお経文の中に、お釈迦様の肉体は滅びるけれども、(迹仏としての肉体は滅びるけれども)その根本である仏の存在は滅びないんだよと言うのが、方便して涅槃を現ず。(滅びる姿を示すこと自体が方便)と、はっきり仰っています。「而も実には滅度せず。常に此に住して法を説く。」本仏は常住するんだと言う事を仰っている。此処に初めて、お釈迦様の本体は本仏だ。と言う事が宣言されるわけです。これは、法華経の寿量品以外には何処にも出てこないご説法なんです。
 
(方便品との比較)
だから先程の方便品は、様々な人の為に説かれた諸経を統一する。という目的で説かれたお経だったけれども、この寿量品と言うのは、仏様と言うとお釈迦様だけでなくして、阿弥陀様も薬師様も大日様もみんないらっしゃるでしょう。それらの様々な仏様を根本に置いて統一する。という仏様の存在を明かした。それが本仏なんですね。つまり、法華経の前半の方便品は「お経の統一」なんです。一代仏教の(数多くのお経)の統一。この、この後半の寿量品は、そのお経を説いてこられた仏様の統一なんです。そこに本仏というのが顕れて来た。
更に表現を変えると、方便品は我々凡夫が、成仏出来るか出来ないかと言う事を明かした凡夫の成仏論です。主役は凡夫なんです。人間がお釈迦様の様になれるかなれないかと言う事を明かしている。それは「仏種の宿る法華経」に頼れば仏になれるよ。と言う事を明かしたから、主役は凡夫なんです。「凡夫の成仏論」それに対しまして、寿量品はどう言う教えかと言うと、今度は主役が凡夫でなくして、仏様に代わって来る。つまり凡夫が成仏出来るか出来ないかと言う事よりも、仏様が凡夫をいかにして救うかと言う事に、つまり、救済論に変わって来るんです。結果は同じ事なんだけれども、凡夫に視点を当てて(人間に視点を当てて)論じたのが方便品。ところが、寿量品は仏様の視点から世間を見ていった教えだから「仏陀の救済論」と言う事になって来んです。ちょっと難しい話しになってきたかと思うんですけれども、方便品と寿量品の違いと言うものを、こう言うふうによく見極めておきませんと、寿量品が説かれて来る所以が判からないんですね。だから方便品はどちらかと言えば、「仏様の智慧の教え」なんです。智慧の法門。だから非常に学問的なのです。方便品は。悪く言えば理屈っぽいです。方便品は。智慧の法門。
それに対して、寿量品は仏様の救済の世界ですから、仏様の智慧でなくして慈悲なんです。「慈悲の法門」智慧の法門は理屈っぽいけれども、慈悲の法門は温かいですよ。優しいんですよ。だからお釈迦様の人格をもし一口で表現するならば、智慧が優れているから賢い方、それともう一つは、それに加えて慈悲が深い方だから優しい方だと。だからね、仏教の理想的な人間像は、「賢く且つ優しくあれ」と言う事なんですよ。どっちかに偏っちゃいかんのですよね、賢いけれども冷たいと言われたら、仏になれないんです。舎利弗達が、二乗は仏になれないと、方便品で叱られたのは、勉強ばかりして賢いんです。賢いんだけれども、人の痛みが判からないんですね。冷たいんです。
 
(嘘と方便)
今でもお坊さんの中には、面白い事を言う人が居ますよ。「癌なんてものは死ねば直る!」とこう言うんです。身体の病気は死んだら治ると言うんですよ。死んでも直らない心の病気はどうするんだ。それは、道理として判かりますよ。判かるけれどもね、もう後三ヶ月と言われた人に「そんなものは、死んだら直る」と言うとね、何か冷たいよね。聞き手の側からすると、仏法は賢いだけでは駄目なんです。正しい事であっても、時と場合によっては、相手にそれを言って良い時期と悪い時期がある。と言う事でしょうね。だからお釈迦様が方便を用いられたのは、お医者さんの心遣いと一緒で、検査した結果、末期癌だなと判ったとしても、それをそのまま患者に告げると、生きる意欲を失うから「貴方は出血性の潰瘍だから早急に手術をすれば直りますよ」と言う事によって、生きようとする人間の生命力を持たせるわけでしょう。でも医学的に言えば、事実に反する事を言っているわけだから、嘘を付いたじゃないかと言うことになる。しかしこれは方便なんですよ。相手の利益を思って、事実に反することを言うのは、これが方便。
ところが世間は「嘘も方便」と言って、嘘と方便の使い分けが出来なくなっている。自分がついた嘘も、ばれてしまったら、これは方便だと言って逃げる人がいるでしょう。あれは良くない。あの嘘と方便の違いは、自分の利益の為に事実と違う事を言うのは嘘に成るんですよ。でも相手の利益の為にやっている事はこれ方便なんですね。だから例えば、隣の家からバナナを一房貰った。それを小さな子供が蔭で見て居った。後で子どもが「お隣から貰ったバナナを頂戴」と言われてね、房から一本だけ取ってあげる。それを食べ終わった子どもが「未だ沢山有ったでしょう、もっと頂戴」と言うとね、「あら、あなたの見違いじゃないの?一つしか貰わなかったわよ」と子供に言う。この時に、このお母さんが(一遍に全部与えたら、子供がお腹を壊すだろう)と思って、「一つしか貰わなかったよ」と言うのは事実に反する事であっても、これは方便なんですよ。ところが、子供が寝静まってから、(後で自分が全部食べてやろう)と思ってお母さんが、事実に反する事を言ったとすれば、これは嘘になる。同じ事実に反することでも「嘘と方便」は違うと言う事ですね。
だからそういう事からすると、賢いばかりが能じゃない。その賢さを、充分相手に伝えるものは、根本は優しさだと言う事ですね。だからお釈迦様の優れた所は、大勢の人が付いてきたのは、賢いだけではなくて、実はそれ以上に優しかったんですよ。優しかったから人が付いて来た。そのように見ていくと、人間の心を最後に動かす事の出来る原動力は優しさですよね。でも唯優しいだけでいけないよ。優しいけれども、あの人の言っていることは、何にも根拠が無い。これでは、何処に連れて行かれるのか判らないからね。賢い根拠があって、最後は優しく包み込んでいく。というのが、仏様の期待する人間像なんですね。
 
(寿量品が説かれる背景)
さあ、それでこの法華経の寿量品の法門なんですけれども、どう言うわけで寿量品が説かれるに至ったかと言う事を、今日は一寸、「ドラマ仕立て」とまでは旨く行かないけれども、掻い摘んで、法華経の中で寿量品が説かれる背景になったお話しを一寸してみたいと思う。本当はノートにでも書いてお見せするのが良いのかも知れませんが、まあそれよりも、言葉で是を伝える事が出来れば有り難いと思っているんす・・・、まず法華経の説法の流れに就いては、法華経の(ドラマ)がどう言うふうに展開してきたかと言う事は、皆さんは、おそらく余りご存じないと思うんですよ。と言うのは、皆さんが普段お唱えになるのは、方便品とお自我偈ばっかりでしょう。二と十六ばっかりでしょう。全部で二十八品有るんですよ。後の二十六品は何処へ行ったのか。殆ど縁がないまま「さよなら」するでしょう。それは勿体ないですね。法華経全体の中のドラマで、主要な部分だけ一寸掻い摘んでね、お話し申し上げて置きたいと思います。
法華経はまず序品第一で始まりますね。序品第一。この序品の中では、お釈迦様の説法は一言も無いんですね。だから初めてお釈迦様のご説法を頂くのは、方便品なんですね。方便品の冒頭に何と書かれているかご存じですね。「爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗」と有るでしょう。意味を理解して読んでますか?なかなかそういう訳にもいかないですね。皆さん、たまにはお経を訓読で読んでみて下さい。和文で。そうすると一寸判る。「その時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告たまわく」と。これが方便品のスタートですよ。つまりお釈迦様は序品の時には坐禅を組んで居られた。それが禅定三昧(無量義処三昧)の世界。その三昧の世界から安詳として起ち上がって、そして「告舎利弗」起って舎利弗に告げたまく。智慧第一と言われた舎利弗にお釈迦様の方から説法を始められたと言う事ですね。ここから法華経の説法が始まるのです。
方便品の説法。舎利弗と言えば智慧第一と言われ、一番賢いと言われたお弟子でしょう。この舎利弗に対してお釈迦様は、実に厳しいことを仰っているのですよ。「諸仏の智慧は甚深無量なり。その智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知る事能わざるところなり。」これは、皆さんが毎朝、唱えている方便品の中に出て来るお経文なのですよ。諸仏の智慧は甚深無量なんです。仏様の覚りの世界の智慧と言うものは、甚だ奥が深くてお前達の量り知る所でない。その智慧の門は難解・難入なり。理解する事も難しければ、その世界に入ることも難しいと言う事ですね。一切の声聞・辟支仏の知る事、能わざるところなり、お前達のような、舎利弗如き二乗の知る所ではない!と言って突き放してしまうんですよ。非常に厳しいお言葉です。さすがに方便品は智慧の法門ですね。一寸位智慧があるからと言って自惚れるな。と言って、お釈迦様は、舎利弗を突き放すんですね。その智慧の門は難解難入であるばかりでなく、知る事、能わざるところなり、と言って突き放す。しかし、突き放してしまった侭では、これは最後まで誰も救われない事になってしまうので、お釈迦様は、敢えてこれを説明すれば、と断わって「いわゆる諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・・・」と言うあの十如是の所が展開してくるんです。そこに法華経の迹門の「一念三千」と言う哲学的な法門が展開されるんです。まあ、そんな難しいことは、それぞれの菩提寺のご住職に聞いて貰うことにして、そこは話しを省きます。
そこで、お釈迦様は方便品で「成仏出来る教えは法華経しか無いんだよ」と言う事を舎利弗に告げるんです。舎利弗はそれを聞いて、「初めてその事を聞きました。成る程よく判りました」と言って、自分が領解できた喜びを、お釈迦様に、御礼申し上げる姿が、次の譬喩品なんですね。舎利弗が喜んで、躍り上がって喜ぶんですよ。そこでお釈迦様は舎利弗に「お前さんは、将来、華光如来と言う名前の仏に成ることが出来るだろう」と言って、今まで許されなかった二乗の成仏を、初めて舎利弗に対して認めたわけです。舎利弗は二乗の人で声聞・縁覚の中で成仏が認められた第一号なんです。舎利弗が初めて成仏出来たんですね。それを見て居った他の仲間が目連・迦葉・須菩提・迦旃延と言う人達が、「舎利弗さんは、方便品で判ったと言って喜ぶけれども、我々は未だ判らん」とこう言うんです。それをご覧になったお釈迦様が「どんな素晴らしい教えでも、相手に伝わらなかったら意味が無い」とお考えになって、そこでお釈迦様は、「方便品では徹底した道理の説明、哲学的な論理の説明をしたんだけれども、それが理解できたのは舎利弗唯一人だから、これではいけない」と言う事でお釈迦様は「例えばね、・・・」と言って「方便品の法門」を、譬え話に砕いて説明して下さった。
それが第三番目の譬喩品なんです。三車火宅の譬えと言うのがあって、例え話を使って、表現を変えて説いて下さった。それが譬喩品。その譬え話を聞いて、其の後の迦葉・迦旃延・須菩提・目連と言う四人の声聞衆が「成る程!お釈迦様、始めからそう言うふうに砕いて言って下されば、我々にも判ったのに」と言って喜んだのが四大声聞。お祖師様の御遺文にも出てまいりますけね「四大声聞の領解に曰く」と。譬え話を聞いてやっと判ったのが四人。方便品で一人判って、譬喩品で判ったのが四人。皆で五人しか判ってない。後の人は皆、ボーッとして居る。お釈迦様は、方便品は上級クラスの人。舎利弗のように勉強の出来る天才クラス。それから譬喩品は中級クラスなんですよ。上級クラスにも中級クラスにもついて行けなかった人達の為に、お釈迦様は、因縁話を説いてやろうと言って因縁段を明かされてる。これぞ法華経の第七章、化城喩品と言うお経なんです。第七章の化城喩品。そこでお釈迦様は「実はね・・・」と言う因縁話しを明かされるんです。方便品は哲学的説法。譬喩品は譬え話の説法。化城喩品は因縁話の説法と、三段階に分けて説明されたんです。
化城喩品は、初級入門クラスの人達を相手にした説法です。我々凡夫は、最初から方便品に取り組んでみたところで、恐らく判らないですよ。だから私は檀信徒に、方便品の説明をする時には、始めから化城喩品から入るんですよ。だって初級入門クラスだからこそ、お互いに判り易いんですよ。この化城喩品の中に出て来るお釈迦様の因縁話と言うのが、お釈迦様と目の前に居るお弟子達との師弟の関係、この師弟の関係が、実は三十歳で覚りを開いた時に、お釈迦様の元に集まってお弟子になった。つまり四十年そこそこの師弟関係だと皆思って居ますよね。当然ですね。お釈迦様に長く付いた人でも四十年でしょう。最後まで付いた人で五十年ですね。それ位の年数だと皆は思って居るけど、そうじゃないんだ。実はお釈迦様と師弟の因縁はこの世から始まったんじゃないんだ。お前達の生まれる以前から、私が釈迦牟尼仏として印度に生まれる以前から、前の世の、前の世の、前の世の、ずっと、ずっと大昔から、その時から既にお前さん達と私とは師弟の関係だったんだよ。と言う事を明かしたのが、是が師弟の因縁段なんですよ。だからお前達も最後は私によって救われるんだよ。一番最初に師弟の縁を結んだ時に(良いですか此処が大事)一番最初におまえさん達と私が師弟の因縁を結んだ時に、その時に法華の種を播いたんだ。とこう仰っているんですね。成仏できる為の、仏種を授けたんだとこうですよ。だから今此処で法華経の会座に出会って、もう一度法華経を説くことによって、その種の花を咲かせてあげよう。だから成仏出来るお経は法華経しかない。それは一番最初に播いた種(仏の種)が、法華経によって播かれたからだ。とこう言う事を明かされた。これが化城喩品で説かれた第三の因縁話なんですね。
皆さん気を付けてくださいよ。街のそこらの拝みやさんがするような、「あんたが不幸なのは、三代前の先祖が、水の難で死んだからじゃ。その浮かばれない先祖の霊が祟って悪い因縁が来て不幸になる。」というような、そんな低俗な因縁話じゃないんです。お釈迦様の因縁話と言うのは、方便品も譬喩品も化城喩品も三種類の説法の仕方をされたけれども、哲学的説法(方便品)・譬え話の説法(譬喩品)・因縁話の説法(化城喩品)の三つの説法をされたけれども、中味は一つなんですよ。中味は皆方便品なんです。方便品をストレートに哲学的に説いたか、譬え話を用いたか、因縁話で説明したかの違いが有るけれども、中味は皆方便品。その結論は「法華経以外のお経には、仏種が宿らないんだから成仏出来ないよ」と言う事を明かした。これが法華経の前半のテーマなんですね。さっきの「諸経の統一」なんです。法華経しか成仏できないよと言う事を、お釈迦様は方便品と譬喩品と化城喩品で説明された。と言う事は法華経以外のお経で成仏出来ないと言う事は、今説いているこの法華経こそ、成仏が許されるお経だから、この法華経を聞いて修行したら皆が成仏出来る。これが法華経の前半のテーマだったんですね。
だからお釈迦様は、自分の目の前に居るお弟子さんと会話をする時に、「お前さん達はこれで皆成仏出来る」と念を押されたんですよ。だから化城喩品の説法を聴いて、方便品がヤット解ったんですね。そこで、皆さんも気を付けて頂きたいのは、方便品で「解らない」と首を傾げるのは構いません。譬喩品でも「ピンと来ない」と言うのも未だ良い。でも化城喩品が説明を聴いて「未だ解らない」だったら、後はもう救われる処が無いですよ。もう、そうなると「落ちこぼれ」になってしまう。落ちこぼれに成らないように、化城喩品では解って頂かないと困るんです。(ここから)
お釈迦様は、「自分の目の前のお弟子(在世の衆生)は、これで皆救う事が出来た」とこう仰っているんです。だからお釈迦様は方便品で「我、本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なる事なからしめんと欲しき。我が昔の所願の如き、今者已に満足しぬ」と仰っている。もう、これで思い残す事は無い。だから法華経を、もし芝居で演ずるならば、この化城喩品と後の人記品(授学無学人記品第九)が説かれた時に「良かった、良かった。これで皆を救う事が出来た!」と言って緞帳の幕が降りても、それで良かったはずなんですよ。
ところが、此処からが大事な所なんです。お釈迦様は「今、自分の願は満足したけれども、一つ思い残すことがある」と言って脳裏をかすめた問題があるんですよ。何だと思います?お釈迦様の脳裏をかすめた不安とは。それは、こう言う事なんですよ。「私の生きている間は、この人達は皆、私が救う事が出来るから良いけれども、私が死んだ後はどうなるのか?」という問題。これは凄くリァリティーな現実問題でしょう。お釈迦様のご在世には、ご自分が説法なさるんだから救う事は可能ですよね。ご自分が余命幾ばくもない、もう、八十に手が届く歳だから、間もなく涅槃に入るべしと、お釈迦様が仰っているから、「自分はもう死んで行く、私が死んでから、後に生まれて来た人達は、つまり(仏様滅後の衆生)は誰が救うんだ?」と言う問題を、お釈迦様の脳裏に過ぎったんですね。だから法華経の第十章の法師品と言うお経から後のお経を見ますとね、今まで出て来なかった言葉が良く出で来る。どんな言葉が出て来るかと言うと、それは、「我が滅度の後に」とか、「如来の滅後に於いて」或いは、「仏滅度後」と言う言葉が、頻繁に出て来るんです。仏様が亡くなった後の衆生を誰が救うんだと言うことを、非常に気にかけられたんですね。まあ、お釈迦様って有難いなあと思うのは、ご自分が亡くなった後の世間の人の事もチャント考え下さってるんですよ。滅後の衆生のことをね。
そこでお釈迦様はこう仰っている。「私はもう娑婆世界を発つけれども、誰か私の代理人として、私に成り替わって、この真実の法華経を後の世に弘めてくれる人は居ませんか?」と言って、「滅後の弘経」をやってくれる人を募るわけですよ。その滅後の弘経を募るのに、見宝塔品第十一で三回募るんです。「法華経を付嘱してやるぞ!」とまで仰っているけれど、お弟子が誰もハイと言わないんですよ。みんな聞いて聞かない振りをするんです。冷たいでしょう。お師匠様がこれだけ思いを馳せてるのにね、みんな、お釈迦様と目が合わないようにするんですよ。何か冷たいでしょう。宝塔品で三回、提婆品で二回、計五回に亘って、これを要請するんだけれども、誰一人として「ハイ」と手を挙げない。それもそのはず、お釈迦様は正直すぎてね、弟子が手を挙げられなくなるような事を正直に言っちゃうんですよ。どんなことを言うかと言うと「この法華経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、況んや滅度の後をや」とお経に有るんです。平たく言えば「法華経を説くのは、お釈迦様がお出でになるこの現実の世の中でも、私の事を怨んだり、嫉んだりして、私の足を引っ張ろうとする輩が沢山出て来るんだ。まして私が死んだ後の世に、この法華経をみんなが弘めようと思ったら、弘めた人はきっと、つらいめに会わされるし、嫌がられて苛められるよ」と言う事を、正直に仰っているんですよ。「況んや滅度の後をや」皆さん、それを聞いて居ったらね、「ハイ、私やりましょう」となかなか言えないでしょう。
我々の人間関係の間柄だったら、人に物を頼みたい時には「君、この仕事をやってくれないか?」と言った時に、相手が「そんな難しい事出来ませんよ」と難色を示したら、「いや、そんなに難しい事じゃないんだ。簡単だよ。一寸こうすれば直ぐに出来るから」と言って、煽ててでも、騙してでも、相手をその気にさせて「うん」と言わせるでしょう。引き受けてから「えらい仕事を引き受けたなあ」と相手は思うか知れないけれど、我々だったら、そうするんじゃない?ところが、お釈迦様は最初っから、「この法華経を弘めたら苛められるよ、辛い人生に成るよ、或いは命を狙われるかもわからんよ」と言う事を、正直に言っちゃうもんだから、誰だって手を挙げられないんですよね。
見宝塔品の最後の宝塔偈、今日も法要の中で、お経とお題目の後に唱えた宝塔偈、皆さんよくご存じの「此経難持・若暫持者・我即歓喜・諸仏亦然」あの此経難持「この経は持ち難し」と書いてあるです。だからこそ「若し暫くも持つ者は、我、即ち歓喜す。諸仏も亦然なり」お釈迦様が最も喜んで下さるのは、「持ち難い法華経を持つ事」を喜んで下さる訳ですね。だから「一時でも持ち弘めることは難しいんだよ」そこに「六難九易」と言う法門が説かれるわけですよ。持ち難い。その持ち難いと言われる法華経成ればこそ、是を持つことを勧めると言う意味で、勧持品と言うお経が出て来る。「難持」なるが何故に「勧持」なのです。如何に困難であっても、誰かが、この法華経を持って弘めてくれなかったならば、滅後の衆生は永久に救われないからだ。と言うわけですね。だからこの滅後に法華経を弘めるには、「我不愛身命・但惜無上道」の決意が必要だ。平たく言えば「我、身命を愛せず、但だ、無上道を惜む」と言う事。「私はお釈迦様亡き末法の世にこそ、法華経を弘めます。その時に、命を狙われるようなことが有って、傷を付けられて、殺されることが有ったとしても、身命を惜しみません。ひたすら、この法華経(無上道)を世に伝えたいと思います」その覚悟が必要だと言われるわけですよ。
だからそう簡単に手を挙げられないんだけれども、五回に亘って言われた後で、お釈迦様のお弟子の中で八十万億那由佗と言う大勢の菩薩達が意を決しましてね、「もう傷つけられても良い、殺されても良い、お釈迦様のご恩を報ぜんが為に、私達がやります」と言って手を挙げたんです。「ただ願わくは仏、安穏に住したまえ」と、麗しい師弟愛ですよ。お釈迦様が「私の死んだ後どうなる事か」と思って居られる、その憂いを晴らす為に、「どうぞ仏様ご安心下さい」と言ってね、「我が心を知しめせ」とお経にある。「我々がこの法華経を、後の世に弘めましょう」と言って、命を賭けた宣言をするわけですよ。ここで「法華の芝居」だっら、二回目の幕が降りる処ですよ。「ああ、これで滅後の布教・衆生救済の仕事は、お弟子がやってくれることになったなあ」と言う事で幕が降りる所で、一番良いクライマックスのなですねえ。
ところが、その「やりましょう」と言って、勇気を出して手を挙げた人々に対して、お釈迦様は寿量品の直前に説かれた従地涌出品第十五で、何と言うお言葉を浴びせかけたか。この言葉はもう、耳を疑う様な言葉ですよ。これだけ要請しておきながら、お釈迦様はその命を賭けたお弟子に対して「止みね善男子」とこう仰ったんです。「止めておきなさい」と、どう思います? 断るおつもりだったら、初めっから頼まなければいいでしょう。私はそう思うよ。お釈迦様も人が悪いですよ。五回もお弟子にしつこく頼んでおいて、死ぬ覚悟で手を挙げた人に対して、その人達の志しが尊いから、善男子の「善」の字が付いているけれども、「止めなさい!」と止める。何というお言葉。「汝等がこの経を護持せんこと須いじ」君達に、もう法華経を弘めてもらわなくてもいい。君達が弘めても、どうせ役にたたないから。とこう仰っる。
 
(本化地涌の菩薩)
普通の人間だったら、腹を立ててその場を起ちますよ。しかしさすがに菩薩方ですね。お釈迦様がそう仰っるのならば、それ以上は申しません。と言って、この菩薩方は、腹も立てないし、恥をかかされたと思わない。そして其の後にお釈迦様が「この娑婆世界にはおのずから六万恒河沙の菩薩あり」と言って召し出したのが「本化の菩薩」です。皆さんが日蓮大聖人を拝む時に、「南無本化上行高祖日蓮大菩薩」と拝むでしょう。その「本化の菩薩」と言うお方が、初めて法華経の従地涌出品の中に出て来るんです。大地が割れてそこから六万恒河沙衆の菩薩方が出て来る。だから本化の菩薩の事を「本化地涌の菩薩」と言う。大地から湧き出て来た菩薩。これが数多く出て来る。この菩薩方が、仏の滅後に於いて法華経を弘める任に当たるんだと、お釋迦様が説明された。この事を、宗学では迹化の菩薩を留めて、本化の菩薩を召し出す。「止迹召本」と言う言い方をするわけです。
此処に「本化の菩薩」が初めて登場して来る。その本化の菩薩の代表格が、上行・無辺行・浄行・安立行と言う名前の四菩薩です。此処の御宝前にもお祀りしてある(、立って居られる)両脇の四人の菩薩方を本化の四菩薩です。その四菩薩の中の、筆頭の上首を、上行菩薩と言うんです。その涌出品に顕れてきた本化の菩薩のリーダ格の上行菩薩の生まれ変わりとして、我が祖、日蓮大聖人が鎌倉時代に日本国に再びお出ましになるんですよ。それが本化上行の再誕と言う事なんですね。その話しは特に神力品の舞台に成りますけれども、この上行菩薩と言う本化の菩薩が、お釈迦様のお弟子なんですけれども、沢山顕れて来て何をするかと見て居ったら、お釈迦様の周りを、三回廻って、「お釈迦様お久しぶりでございます。少病少悩、病無く悩み無く衆生を教育されて居られますか?ご機嫌麗しゅうございますか?」と言ってね、この本化の菩薩がお釈迦様にご挨拶するんですね、沢山の数の菩薩がですよ。
そこで弥勒菩薩を始めとする菩薩の姿を見て居りますとね、勿体ない表現だけれども、お釈迦様よりもお年が上に見えたし、みんなの目にはお釈迦様よりもお徳が高いように見えたんです。この菩薩はお釈迦様よりも高徳長寿に映ったと言うんです。しかもお弟子の数がもの凄く多い。そこで、弥勒菩薩と言う代表的な菩薩ですら、この中の一人として顔を知らなかった。「乃不識一人」誰も知らなかったと、そこで弥勒菩薩が大衆の気持ちを察して、「お釈迦様、この位の高いとお見受けする菩薩方は、一体どういう方ですか?」と言って尋ねると、お釈迦様が「これは私の弟子達だ」とこう仰っる。でもね、「お釈迦様が三十歳で仏になって、七十二歳まで僅か四十余年の短い時間に、これだけの菩薩方を教育するのは不可能でしょう。<弟子の多きを見て、成仏の久しきを知る>という言葉があるが、弟子が大勢居ると言う事は、それだけ仏として、教育して来た期間が長いと言う事でしょうから、これだけ大勢のお弟子を教育するのは、不可能に思いますが」と弥勒菩薩が言うんですね。ところがね「我れ久遠よりこのかた、これらの衆を教化せり」とお釈迦様は仰っている。
そこで、弥勒菩薩が実にユニークな表現をされるんですよ。「お釈迦様、このご説明は皆が信じませんよ。
譬えば髪黒くして二十五歳になる青年が、白髪の百歳の老人を指差して、これを私のお爺さんですと言えば、ああそうですかと判る。でも、お釈迦様が仰っるには、この人はわしの孫じゃ。と言うようなものです。こんな事は世間では通じませんよ」と指摘するんです。本化の菩薩が高徳長寿だら、白髪の百歳の老人に見えた。逆にお釈迦様が若く見えたから、髪黒くして二十五歳になる青年に見えたわけですよ。でも弥勒菩薩はさすがに立派なお方でね、「私達はお釈迦様のお弟子として、今日まで付いてきた者ですから、お釈迦様がそうだと仰っれば、信じる用意はある。烏が白だと言われてもそうですか。と言えるだけの用意はある。でもね、お釈迦様が亡くなった後に生まれて来る人が、後世にその説明をお経で読んだ時に、<そんな馬鹿な話しがあるか、そんな話は作り事だ、虚言だ>と言って、滅後の衆生が法華経そのものを信じないような罪を犯す恐れがおおいにあります。だから私達は良いけれども、お釈迦様亡き後に生まれて来る人達が、法華経を軽んずる様な罪を起こさない為に是非ともこの訳を説明して下さい」とこう言うんですね。だからこれは、「父少而子老」と言って、「父若くして子老いたり」の法門です。「子少くして父老いたり」だったら判るけど、「父若くして子老いたり」は、やはり可笑しいですよね。
 
(寿量品の中身)
その疑問を弥勒菩薩に敢えて質問させて於いてから、それに答えて説かれたのが「如来寿量品第十六」です。「如来の寿命は無量だ」という内容のお経です。「命」と「無」と言う文字を略して「如来寿量品」と名付けたんです。さっき言った「迹仏を開いて本仏を顕す」(開迹顕本)の法門を明かしたんですね。本仏という如来の寿命は無量だよと。お自我偈の中に有りますね、「自我得仏来・所経諸劫数」其の後「無量百千萬・億載阿僧祇」と。皆さん、普通の感覚・常識を持って、このお自我偈を読んだら、目玉が飛び出すくらい驚く筈ですよ。何故かと言うと、お釈迦様は三十歳で覚りを開いて、七十二歳で法華経を説いた訳だから、覚りを開いてからせいぜい四十年、でしょう。だから本当ならば、「如来寿量品」の如来と言うものが、インドの釈迦牟尼如来を指すんだったら、自我偈は読めなくなる。釈迦牟尼如来が、説いたお経だとすれば「我れ仏を得てよりこのかた、経たる所のもろもろの劫数、凡そ四十余年なり」とお自我偈になければ可笑しいですよ。四十数年。そうでなくして「無量百千萬・億載阿僧祇」と言う事は、「仏が覚りを開いたのは四十年前でなく、ずっとずっと大昔、久遠の昔に覚りを開いていたんだ」と言う事を仰っているわけですね。だからそれを「久遠の本仏」と言う言い方をしたんです。インドに生まれて来たお釈迦様を迹仏と名付けて、その根本にある仏様を本仏と名付けた。つまり、自我偈の冒頭にある「我、仏を得てより・・・」の「我」とは、インドのお釈迦様の事ではなく、その本体(実体)である「久遠の本仏」の事なのですね。その本仏の寿命が、無量であると言う事を明らかに宣言するのが、この「如来寿量品」の説かれる所以・目的ですね。
「如来寿量品」と言うのは、仏様の寿命が無量だと言う事を説いたわけですから、寿命が無量だと言う事は、仏様が常に常住しておられると言う事ですよ。本仏が実在して常に留まっている、常住している。常住して居るからこそ、お釈迦様亡き後の時代でも、我々を救う事が出来るんだと言う事になるわけですね。唯、一寸だけ此処で説明しておきたい事が有るのは、皆さん、未だ本仏とか迹仏と言う言葉の使い方が、もう一つピント来ないのではないか、と思うんですけれども、如何でしょうか?本仏と迹仏と言うのは、判かり易く言えば、宇宙法界にまします「根本の仏様」と、娑婆世界にお生まれになった「お釈迦様」と言う事なんですけれども、このそれぞれの仏様が、全く別々の仏様であるかといえば、決してそうではない。本仏は、あくまでも「根本仏」であって、お釈迦様は、その「垂迹仏」なのです。
 
(本仏と迹仏)
本仏と言う言葉には、二通りの意味が有ります。一つには「根本仏」。それからもう一つには「本覚仏」です。「根本仏」とは、十方世界の、一番中心に居られる根本の仏様です。その根本の仏様がインドにお生まれになった時には、釈迦と名乗ったんです。お釈迦様です。我々の娑婆世界にお出ましになった時には、釈迦牟尼仏と名乗ったんですね。西の方の極楽世界に生まれた時には、阿彌陀仏と名乗ったんです。西方極楽世界の教主です。又、東の方の浄瑠璃世界と言う所にお出ましになる時には、薬師如来と名乗ったんす。更には、密厳浄土と言う所にお出ましになったには、大日如来と名乗るんですよ。この「根本仏」と「諸仏」の関係を、認識する必要がある。それが判らないと、阿弥陀様は架空の仏様だとかね、そんな仏様は実在しないんだ。と言ってしまう。極楽世界の教主として存在なさるのが阿弥陀様なのです。だからお釈迦様も阿弥陀様も薬師様もね、根本仏が姿を変えて顕れた仮の姿で、仮の名前だと認識して頂ければ良いのです。しかしこの仮の姿の仏様(例えば、お釈迦様)は、寿命が尽きると、方便して涅槃の姿をを現ぜられますから、亡くなってしまわれたように感ぜられますけれども、その生命体・実体は「常住不滅」なのです。その生命体・或いは実体の仏様が、実はこの根本仏なんですね。この根本仏の存在を初めて明かしたのが寿量品なんですよ。今までは「お釈迦様の仏法」の存在しか明かさなかった。根本仏の存在を明かして初めて、「釈迦以前の仏法」から「釈迦滅後の仏法」の存在を全て明かして来たのが、これがこの寿量品の経説。だから此処に顕れた釈迦・彌陀・薬師・大日と名前を名乗った仏様は、これが皆、迹仏なんです。つまり「おぎゃぁ」と生まれてきて、亡くなっていく姿を示した仏様。これが皆、迹仏、垂迹した姿、垂迹仏なんですね。その本体・実体は、寿量品の根本仏。だから別の人格じゃないんです。根本仏が仮の姿を現じて釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来となって顕れて来られたんですよ。この点をよく考えませんと、我々の娑婆世界以外には世界がないとか、釋迦仏以外には仏様は存在しないと考えると、法華經を誤る。唯、この根本仏には名前が無いんですよ。妙法蓮華経の如来寿量品の中で、初めて登場した仏様だから名前の付けようがない。そこでお祖師様はこの本仏の事を「妙法蓮華経如来」と言われた。妙法蓮華経如来。だから日蓮聖人は「お釈迦様を本尊とせよ(お釈迦様を通じて本仏を本尊とせよと言う事ですから)」と言いいながらも、南無釈迦牟尼仏とは拝まれなかった。南無阿彌陀仏のように南無釈迦牟尼仏と拝まれなかった。南無妙法蓮華経と唱えられたのは、この根本仏、つまり、「久遠の本仏に帰依いたします」と言う事なんですね。名付けようのない仏様の名前を敢えて名づくれば、「妙法蓮華経如来」と言う表現より外に言いようがないからです。だから「如来寿量品」(如来寿命無量品)と言う経題にある「如来」とは、実は、釈迦牟尼如来でなくして、妙法蓮華経如来と言う仏様の事ですよ。と言う事に成るわけですね。これが先ず第一点。
もう一つは本覚仏。この本覚仏と言うのは、初めから覚っている仏様と言う事なんです。それに対してお釈迦様の事は始覚仏。三十歳で覚りを開いた時を成仏のスタートと規定する。つまり、成仏の始めが有る仏様、これを始覚仏と言うんですね。お釈迦様の事です。それに対しまして、本覚仏というのは、永遠の過去(始めのない始め)から永遠の未来(終わりの無い終わり)まで、表現を換えると、無始の始めから、無終の終わりまで(面白い言い方ですけどね)永遠不滅の存在として、衆生救済に当たる。これを本覚仏と言うんですね。そこで、その現在と言うのは、釈迦様となって、お生まれになったその時の姿を、現在と規定する約束があるのです。つまり、始覚仏としてのお釈迦様が、五十年間の説法をなさった時を指すんです。
つまり何故敢えてこんな事を言ったかと言うと、本仏と言うのは、空間的に諸仏を統一すれば根本仏になり、時間的にこれを網羅すれば本覚仏に成るんだよと言う事ですね。どの世界に於いても、何時の時代に於いても、時間も空間も全てを網羅して、衆生を永遠に救済し続ける仏様、これが久遠実成の仏様。これを本仏と言う。その本仏の実態を顕したのが如来寿量品。
 
(寿量品の要点)
要するに、寿量品というお経は、仏様の「常住不滅」を明かし、更には、その仏様の「衆生救済」を確かに約束して下さった教えなのです。
中国の天台大師という、偉い学僧が、「法華文句」という書物の中で、寿量品を解説しておられますが、その学説によりますと、骨格となる法門が三つあります。先ず最初に「三身常住」(如来秘密)・次に「三世益物」(神通之力)・そして最後に「良医治子」(譬如良医)の法門です。この中身が理解できなかったら、
寿量品が判った事にはならい!「有り難いお経だ!」という資格はないんですよ。細かい事を言えば、それ以外にも、法門は沢山有りますが、今日は、この三つの法門に就いて、説明をしたいと思います。
<三身常住>
先ず、「三身常住」という事ですが、「三身」とは、仏様を三つの角度から説明した「仏身論」の事です。つまり、「法性身・果報身・応現身」の三身です。「法性身」とは、仏様のお悟りの中身(真理)の事です。
次に「果報身」とは、その真理を獲得する為の、仏様の(智慧)の事です。それから「応現身」というのは、その(智慧)で得た(真理)を衆生に説明する為に、人間世界・娑婆世界に生まれて来られた仏様の肉体
を意味しますが、衆生救済の目的で応現された訳ですから、その根本は仏様の(慈悲)ですね。いいですか、仏様というのは、真理と智慧と慈悲の三つの宝物を一身に備えられた方なのです。一つでも欠けたら仏様ではない。
その「三身」の中で、永遠不滅の存在は、「法性身」という(真理)だけなんです。真理は不滅ですよね。これを、「無始無終」という。
ところが、「果報身」と言う(智慧)は、お釈迦様の三十歳の時の成道によって、花を咲かせる訳だから、(真理)が、人類に対して明らかにされたのは、最初のスタート時点が規定されている事になりますよね。だからこれは「有始無終」となる。
更に、「応現身」は、お釈迦様の肉体を意味しますから、当然の事ながら「有始有終」の存在となります。
この説明の仕方は、一般仏教の定説です。ところが、天台大師は「寿量品の仏様(本仏)」は、「法性身」のみならず、「三身常住」だと仰っている。この具体的な説明は、お釈迦様ご自身が「自我偈」の冒頭部分で説いておいでになるので、よくよく、訓読で読み返して下さい。解説を必要とした時には、専門家である菩提寺のご住職にお尋ね下さい。
詰まる所、寿量品で初めて開顕された「久遠の本仏」は、「三身常住」なるが故に、現実的に「永遠不滅」だという事ですよ。「如来秘密」という経文には、そういう深い意味がある。これを、天台大師は「本仏の体」と説明された。「体」とは、実体・本体という意味です。
<三世益物>
次に「三世益物」ですが、「三世」とは、ご承知のように「過去・現在・未来」の事です。但しこれは、お釈迦様を中心にした時間軸ですから、お釈迦様が、インドでご説法なさった五十年間を「現在」と規定します。
それから「益物」とは、「やくもつ」と発音します。益とは「利益する」という意味。物とは「衆生」の事ですから「益物」とは、平たくいえば「衆生救済」の事ですよ。
つまり「三世益物」とは、「寿量品の本仏は、釈迦仏がお出ましになる以前(無始の始め)より、釈迦仏の滅後(無終の終わり)に至るまで、過去・現在・未来の三世に亘って、常に、永遠に私ども衆生を救済し続けて下さる」という意味です。「神通之力」という経文は、その事を説いてある。天台大師は、これを「本仏の用」と説明された。「用」とは、「はたらき」という意味です。
要するに、寿量品で開顕された「久遠の本仏」という仏様は、「常在此不滅」(三身常住)であるのみならず、「常住此説法」(三世益物)なるが故に、私どもにとりましては、唯一絶対の「ご本尊」になり得る訳です。
此処に、寿量品のメインテーマである「諸仏の統一」が、見事に完成する事になるんです。
さてそこで、現実問題として、我々は「三世益物」の中で、過去・現在・未来の何処に属するかと言えば、釈迦仏滅後の、然も「末法」という時代に活きている訳ですから、申すまでもなく「未来益物」の世界ですよね。「未来益物」の中身が、我々の「死活問題」となります。
<良医治子>
その問題に関連して「良医治子」の話をします。既にご承知とは思いますが、これは「法華七喩」の最後の喩え話です。
良医が留守をした後に、家に残された子供達が、誤って「毒薬」を飲んでしまった。そしてその毒が効を奏して、子供達は七転八到して苦しんだ。そこへ、良医である父が帰宅して、その有様を見た。子供達は、解毒剤を求めた。良医は早速「良薬」を調合した。この「良薬」を子供達に与えた処、素直に服する者と、敢えてこの「良薬」を拒む者が在った。本心を失わざる軽病の者は「良薬」の効き目があって、毒の病が癒えた。毒気が深く浸透して、本心を失った重病の者は「良薬」を飲む事が出来ないので、苦しむばかりである。
そこで良医は、失心の子供達の為に方便を設けて、再び旅に出かけた。そして旅先から、使いを遣わして「君達の父は、旅先で死去した」と、失心の子供達に告げさせた。このショックに目が醒めて、父が調合して
留めて置いた「良薬」をようやく服する事が出来た。この時点で、全ての子供達が「毒病皆癒」出来た。という喩え話です。
これに少し解説を加えてみましょう。
「良医」とは、お釈迦様です。「子供達」は、衆生です。但しその中でも「不失心」は、釈迦仏在世の衆生。「失心」は、釈迦仏滅後(就中、末法)の衆生。「使者」とは、本化上行菩薩です。「良薬」とは、法華經の事ですが、在世の衆生の為には「一品二半(従地涌出品の後半・寿量品・分別功徳品の前半)」と為り、滅後(末法)の衆生の為には「妙法五字のお題目」と為る。
 
(むすび)
寿量品は、この三つの法門、つまり、「三身常住・三世益物・良医治子」を屋台骨として、拝読していくと、その全体像が見えて来るように思います。その中でも特に「三世益物」という、本仏の永遠の救済が余す所なく説かれているんですね。まさしく、法華經の骨髄であり、魂魄なんですよね。
寿量品が説かれた背景は、先程申しましたように、お釈迦様とお弟子とのやり取りの中から「私の本当の姿、本体は永遠不滅の仏だよ。」という事を明かすに至った教えです。如来寿量品で説く本仏と言うのは、日蓮大聖人が観心本尊抄で「仏すでに過去にも滅せず未来にも生せず」と仰っているように、過去に滅することもなければ、未来に新たに生まれて来ることもない仏様の事です。その本仏の実在と救済を信ずる我々所化(お弟子)は「所化もって同体なり」と仰っているように、我々と本仏は、倶に永遠の命で結ばれているのです。その事を岩手県の詩人、宮沢賢治が「雨ニモマケズ」の詩の中で「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテ、コワガラナクテモイイトイイ」と言っている言葉が有るでしょう。あの「怖がらなくてもいい」と言う言葉は、何を意味するか?あれは、まさしく寿量品の世界なんですよ。「人生はこの世かぎでないよ、たとえ肉体は滅びても、貴方の魂は永遠にお釈迦様と倶に生き続けるんですよ。お釈迦様のお慈悲に救われていくんですよ」と言う事をね、臨終間近な人に説いて聞かせてあげる。それによって、死の恐怖から解放させてやること、それが宮沢賢治の思いやりであったわけですね、だから死にそうな人が有れば「怖がらなくても良い」と言う事。これは法華経の心を体得した人でなければ言えない臨終の挨拶なんですよ。元気を出して下さい」じゃ役に立たないんですよ。やがて死を迎える人に「怖がらなくても良い」と言えるのは、寿量品の世界に生きる人の、「御利益」、と言うことが言えるのではないかと思います。で、この寿量品の中で、久遠の本仏は、お釈迦様として、五十年間の説法(現在益物)を終えて、後の未来、滅後末法にはどういう形で、人を導くかと言うと、その時は「本化上行菩薩」を使いとして派遣すると約束された。久遠の本仏が、お釈迦様として娑婆世界にお出ましになるのは、一度きりなんですよ。後は出で来ないんです。だから観心本尊抄で、お祖師様が仰っている様に「仏すでに過去にも滅せず未来にも生せず」もうお釈迦様は二度と出て来られない。じゃあ、滅後末法の我々の時代には、誰が出て来て救うんだと言えば、お釈迦様はこの事を、明らかにご説明されたのは、来年お話しをする「如来神力品」なんですよ。この上行菩薩が日蓮聖人だと言う事が判ると、何故今お祖師様でなければならないか、と言う事が見えて来るような結果になって来る。与えられました時間を、十分ほど超過いたしました事を、主催者側に深くお詫び申し上げまして、今日のお話を終わりたいと思います。又ご縁がございましたら、来年お目に掛かりましょう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。


本講演 テキストデーター作成 秦孝悦上人


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