● 林 洋子 シタール弾き語り「雁の童子」 クラムボン秋田

    2005年 11月23日(水)午後2時30分より

     時雨模様のなか、歩道の落ち葉を踏みしめながら、千秋公園の入り口・「ジョイナス」に153名が
     宮沢賢治の心の世界のドアをノックした。

    主 催       秋田宮沢賢治愛好会/クラムボン秋田

詳しくはクラムボン秋田のホームページをご覧下さい。



ジョイナスで公演された 林 洋子 シタール弾き語り 「雁の童子」 


 【ご挨拶】   クラムボン秋田 代表 福田 圭子
 クラムボンの会が生まれて25年、この度東京の庭園美術館ホールで、「林 洋子 シタール弾き語り『雁の童子』」が行われました。
 林 洋子さん主宰の宮沢賢治一人語り「クラムボンの会」は、1980年に誕生しました。劇団俳優座から劇団三期会を経て、フリーとなってから、水俣病の実態に触れ、石牟礼道子原作「苦海浄土」の上演の後、林 洋子さんは、沈黙をせざるをえない年月を経験するのです。「芝居が出来なくなった自分、約10年近く沈黙した自分のいのちが、開かれ、動き出すのをまざまざと自覚したインドでの生活」を経て、帰国した林さんは、ある雨の日、偶然見かけた母子の柔らかな素直な仕草にハッとするのです。「バスの中からみかけた、いわばどこにでもありそうな母子の手をつないで話をしている何気ない情景なのだが、まるで打たれたかのような瞬間だった」「あれは、いのちの仕草だ。生きているものすべてが、一つずつもっている柔らかないのちの仕草だ。」「その時、ピカッと、賢治が私の中に飛び込んできた」「私は何者か。私の持ち場が俳優なら、本音でその持ち場につこう。いのちのために。いのち同士が支えあうために、つながるために・・・」(以上『合い言葉はクラムボン』より引用)
 林 洋子さん、50歳の出発でした。こうして語りつづけた公演は1400回を超えます。
 1990年、秋田にもクラムボンの会が生まれました。ある日、林さんの一人語りを紹介した新聞記事を見て、釘付けになった私は「子どもたちに聞かせたい」と痛切に思いました。きっと、紹介記事の行間に彼女のメッセージをダイレクトに感じたのでしょうか。
 それは、あの雨の日の母子の柔らかいいのちに通ずるものであったかも知れないと今にして思います。知り合いから知り合いに声をかけ、とうとう最初の公演にこぎ着けました。照明係は子どもたち、会場作りはお父さんやお兄さん、受付はお母さんたち・・・と夢中になって「一つの」舞台を作り上げたのでした。
 以来、秋田県内で20回の公演が実現しました。アイリッシュハーブと語りによる「やまなし」「よだかの星」、シタール弾き語り「雁の童子」、リコーダー伴奏の「雪わたり」「いちょうの実」、薩摩琵琶弾き語りの「なめとこ山の熊」・・・。それぞれ寄り集まりそれぞれの条件下での手作り公演でした。
 2001年、林さんは股関節の手術をしなければならないピンチに見舞われました。「よし、私が俳優として仕事をまっとうするために手術に挑戦しよう!リハビリを本気で徹底的にやれば、絶対復帰できる!」。医師も驚くほどの回復を見せ、半年後、林さんは公演を再開しました。ただどうしても、シタール弾き語り「雁の童子」に困難が待っていたのです。
 シタールは、ヨガの座り方で弾く楽器のため、股関節に人口骨頭を入れた林さんにはとても困難でした。
 

 今年の5月、林さんと久々に電話で話した私は、たまたま秋田に、一人ひとりに合わせて椅子を作る萩原製作所があることを知らせました。シタールを支え座ることが出来る椅子があれば、「雁の童子」の公演も可能なのではないか、と。
 
 林さんは、すぐに秋田に飛んでやってきました。そして、萩原製作所の人と何度も何度も話し合い、図面を引きなおしてもらって、ようやく7月に「雁の童子」の椅子が出来上がりました。まさに、「雁の童子」のための「世界でたった一つの椅子」です。
 今回の25周年の記念公演は、こうして「雁の童子」6年ぶりの実現となったのです。

 私は、林 洋子さんの、このエネルギーは何だろうといつも思います。林さんの公演の特徴は、毎回3時間にわたる地元の人たちと作り上げるリハーサルです。そのとき彼女は、こちらがピシッと打たれるように、いつも本気で立ち向かいます。彼女がまるごと本気で向き合うので、小さな子どもでも、自分の全力を出して照明係りや、幻灯係りの持ち場で応えてくれるのです。その子の力を彼女は無条件に信じるのです。そこには、なぜ25年も続けてこられたのかの答えがあるように、私は思います。

 「春の雨の中で見知らぬ母子のいのちが与えてくれた希い。それは新しいいのち同士の結びつき、関係への希い」(「合い言葉はクラムボン』より)が、林 洋子さんの公演を支えている力なのです。失われがちな人と人との直接の触れ合いを、林 洋子さんは、今日も、どこかへ出かけて伝えているのではないでしょうか。
 「雁の童子」は、賢治の作品の中で、不思議な光を放っている作品です。舞台はシルクロード、タクラマカン砂漠の彼方・・・。膨大な時の流れ、いのちの流れの中を流れ巡る、生と死を含んだ一粒のいのちの物語です。

 東京公演に続いて秋田でも、今日の公演が実現しました。林 洋子さんの身体を通して語られる宮沢賢治の世界を、是非大人の方々にも子どもたちにも聴いていただきたいと思います。林 洋子さんの、「めぐり逢ういのち」のメッセージが、きっとあなたにも届くことでしょう。 (2005 11.23)


 1991年 2月 久城寺を会場に クラムボン秋田は、林洋子さんの弾き語り「雁の童子」を開催
 1996年 6月 当時私が事務局長を務めていた日蓮宗秋田県教化センターが主催、クラムボン秋田
           秋田宮沢賢治愛好会共催で秋田市生涯学習センターで「なめとこ山の熊」を開催した
           経緯があります。
            またこの年は賢治生誕百年に当たり各テレビ局、マスコミでは多方面から賢治生誕百年を祝う
           特集番組を数多く報じていた。


〔雁の童子〕 お父さん、水は夜でも流れるのですか

 タクラマカン砂漠の彼方、流沙の南の泉で、一人の巡礼の老人が、小さな祠の由縁を語ります。
沙車の街に須利耶圭(すりやけい)という人が住んでいました。ある朝、須利耶さまは、殺生を慰みとするいとこの方と野原を歩いていたところ、その方は空を飛ぶ雁の群れを鉄砲で撃ちます。
 すると、弾丸の当たった6匹の雁は次つぎに人になって落ちてきたのです。五人は天に戻りましたが、最後の一人、小さなこどもだけは戻ることができませんでした。
 その子が雁の童子でした。須利耶さまは童子を引き取り、自分の子としてお育てになりました。童子はとても賢い子でした。そして、いのちの奥にある悲しみを感じとっているようでした。
 歳月はめぐり、やがて須利耶さまと童子が別れるときがやってきました。・・・・・・・・・・・・

(絵 川口 裕子)


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