10月1日 月例金曜講話・講話資料(レジュメ)

 シルクロード、その古代オアシスの興亡の背景
 〜タクラマカン沙漠を例として〜

立正大学 学長 高村 広毅氏



 想像を絶する乾燥と蒼茫たる礫瀑平原の世界に人類が敢然と挑んだ道、それがシルクロード(絹之路)である。唐の都、長安を起点として古代ペルシャ、ローマ帝国などの都市へ続く延々7000kmのシルクロードは魅力に溢れている。
 
 歴史の語るところによると、最初にこの地に足を踏み入れたのは、紀元前10年頃に時の武帝の命令で、当時西域にいたという強力な戦闘用軍馬を求めて進駐した張騫(ちょうけん)将軍で、そのとき以来この路は交易路として発展し、東西文化の交流に大きな役割を果たしてきたのである。
「東方見聞録」を著した探検家マルコポーロも通過したであろうこの世界一長い道を、ドイツの地理学者リヒトホーフェン(Ferdinand von Richtofen)がSeidenstrasse「絹の道」と命名した。

 この道は、文字通り中国特産の絹を運んだ隊商路である。太古にこの道を通って運ばれた仏典は、やがて日本に伝来し、仏教教学の原点となり、日本文化の規範となって、今日に脈打っている。
 1989年の夏、同窓各位や関係諸氏のご支援をいただいて、立正大学・新疆大学(Xinjiang University)、並びに中国科学院と合同シルクロード踏査隊(総隊長:高村弘毅)が組織され、中国新疆ウィグル自治区のタリム盆地に広がるタクリマカン沙漠周辺を踏査することができた。続いて、1994年福武財団の学術研究補助金をいただき研究を続行し、日本沙漠学会で国際シンポジュウムを開催することができた。

 その背景を踏まえ、文部科学省研究補助金・基礎研究(A)(2)課題「タクリマカン沙漠南縁オアシスにおける水文環境の変化と沙漠化」(課題番号:10041086)(研究代表者:高村弘毅)の調査研究を平成10年〜平成12年度の3年間実施した。

 最初の調査から現在までの15年間の間、小生がチベット高原北部の氷河地帯からタクリマカン沙漠に埋もれた各古代遺跡までの南北方向、西域南道の古代オアシス集落興亡の謎を、水文環境を復元することにより追求することとした。

 遺跡時代における水文環境の復元の方法は、現在オアシスから恒常流の終点までの距離と年平均量から得られた回帰式により古河川流量を推測した。

 ケリヤ河の現オアシスでの通過時の流量は現在22.4m3/sであるが、古カラドン集落が立地した過去には146m3/あり、現在より6.5倍多かった。また、ニヤ遺跡のあるニヤ河では、現在より約8倍多い70m3/sの流量が維持され、河道も現在より幅広く変化に富んでいたことを明らかにした。

 ケリヤ河の場合、河川水が古代遺跡を含むタクリマカン沙漠内の主な地点まで到達するために必要な最低流量を回帰式により算出した。古ケリヤ河が沙漠を横断してタリム河まで到達していた豊水時代の流量を推算すると、現ケリヤオアシス地点で少なくとも現在の14倍の321m3/s以上の年平均流量があり、この時のカラドン遺跡付近の通過流量は142m3/sであったことが推定できた。

 古代オアシス時代以降、気候は温暖期から寒冷期に移行し、河川水が次第に減少することにより、生活基盤が極度に脆弱となり、集落の衰退が始まって廃墟化に移行したものと考える。

 古代オアシス集落時代は河川流量が豊富であり、水辺空間には下流域まで河畔林や草地の生態系が広く分布し、放牧、農業が安定して営まれ、古代集落に繁栄をもたらしていたと考える。


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