莚師法縁隆源会 |
大本山本圀寺貫首・早川日章猊下のご回向文 |
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令和5年1月26日 京都 山科 大本山本圀寺 大本堂にて |
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莚師法縁隆源会の皆様へ 令和五年 年頭に当たって |
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大本山本圀寺貫首・早川日章猊法華総本寺の本圀寺を護山し、盛り立てよう! |
〜西日本から「三大秘法」を整えよう〜 令和五年の清々しき新年を迎え、隆源会の会員の皆様には益々ご清栄の事と存じます。 日頃本山に対し、並々ならぬご厚情を賜り心より御礼申し上げます。小生の晋山式、前貫首・伊藤日瑞猊下本葬儀の合間を縫っての、懸案の大本堂屋根瓦葺替工事は各位の絶大のご協力を忝なくし、堂々と完成することが出来ました。 是れ偏に、各山ご尊聖、有縁の各氏の、新しい本圀寺へ架けるご期待のいたす所と衷心より御礼申し上げます。 この勧募に際しては、法華総本寺である本圀寺が自身に求められているであろう義務の所在を明確にし、六条門流の復興を堅く誓願し、以て光輝ある伝統宗門に宗立の戒壇建立を強く希望を致しました。 これは、前貫首・伊藤瑞叡日慈猊下の遺された課題の実現化であり、そのために、山内にその建案委員会を発足いたし、宗立戒壇への取り組みを始めております。最終的には「宗門」に建白することになります。 ただ、宗立の「本門の戒壇」は本圀寺一山で建立・運営できるものではありません。宗立である限り、多くの宗門人の合意と四条門流妙顕寺様を始めとする京都本山の八山会を中心に、京都・近畿・中部・西日本のご賛同とご協力が無ければなりません。 惟うに、宗門機能はすべて東日本に置かれ、日本の元の中心であった京都・大阪及び西日本には何一つ置かれていません。奮起の勇を以て新しい風を起こし、宗立戒壇は京都に建立していただきたい、と訴えて参りたいと存じます。 さて、本圀寺は京都六条の地より移転し五十周年を迎えています。解散請求訴訟を起こされる程に泥にまみれ、断末魔の底に喘いだ霊跡を第六十三世・沙羅樹院日瑞大和尚を初めとする山務当局の甚深の努力が実り、山科のこの新天地に宗門の霊跡を繋いだのでした。当時、新たに建立した大本堂は落慶の賀を奏しないまま五十年が経ち、今回の屋根の修理と相成った次第です。この間に、日朗上人・日印上人の第七百遠忌、日静上人の第六百五十遠忌に遭遇しております。 そこで、本年(令和五年)六月五日に宗祖御生誕八百年慶讃法要並びに山科移転五十周年記念法要をささやかながら奉行致したく計画を進めております。 莚師法縁隆源会の尊聖各位におかれましては何卒ご出席賜りたく、追ってご案内を申し上げたく存じております。 また、莚師法縁全国大会が六月六日より一泊二日で京都にて開催される予定です。こちらへのご参加も併せよろしくお願い申し上げます。 文末恐乍ら、尊聖並びに各山ご一統様の益々のご繁栄とご多幸をご祈念申し上げます。 合掌 |
日蓮宗 大本山本圀寺 貫首 早川 日章 |
(※令和5年1月26日 発行 隆源会報 第27号 巻頭言より転載) |
第2回 宗立戒壇建立建案委員会 発問 |
「四信五品抄」に聞く〈信仰の進度と僧俗の修行〉について |
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『四信五品抄』に聞く 〈信仰の進度と僧俗の修行について〉 |
〜 殊に、法華経における本門戒への展望 〜 |
大本山本圀寺現燈 早 川 日 章 はじめに 『撰時抄』に「詮と不審なる事は、仏は説き尽くし給ども、(中略)天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法、経文の面に現前なり。此深法、今末法の始五々百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事、不審極まりなきなり」とご教示あり。では、上行宗祖は「最大の深秘の正法」を如何にして経文から開出なされたか? 上行宗祖。立正安国の玄題旗を幕府に突きつけ、忍難慈勝の持戒堅く、法華経の色読領解において、一大事の秘法(妙法五字)から三つの法門もしくは三大事(三大秘法)の開出へと展開なされた上行宗祖。三大誓願の重厚なる帰結を盾に、広宣流布を使命とし、末法に生きる私たちを激励し続けて下さる上行宗祖。この鴻恩に報いるべく、一刻も早く大いなる本門の戒を解明し、宗立戒壇の建立を希求する次第です。 一 永遠のいのちを生きる私たち 妙法華経の核心『壽量品』で「仏のいのちが永遠である」との教えが説かれると、続く『分別功徳品』では、その教えは何故に価値あり大切であるか(正宗分)、人は何を目指し、どのように修行してゆくべきか(流通分)と、法華経の本門の修行が説かれます。 それ故、宗祖は『分別功徳品』は一品二半を構成する重要な章であると見做していました。『四信五品抄』は宗祖が期せずして六老筆頭の日昭上人を経由し届いた檀越富木常忍公の行者位と用心に関する質問状に応じて書き送った書である。宗祖のお答えは富木氏一人に限られたものでなく、末法万年の信仰者に示された至極の書翰である。宗祖は『分別功徳品』の文底秘沈の仏意(後述)を発見されている。当に期せずしての亀鑑の書である。 ところで、『法華経』(上・中・下 岩波文庫版)の訳注者は「壽量」「分別」両品の注で「如来が『余はこのように久しい以前に「さとり」に到達した』と説くのも、『余は最近に「さとり」到着した』と説くのも、すべて仏の方便であるという。また、如来が入滅したというのも『如来がこの世に現れるのは、容易なことではない』ことをさとらせるための方便であるという。『法華経』七喩の第七とされる「良医に譬喩」が物語られる。これもアウバミヤであるが、そこに述べられる仮定の事実は実に下手である。」(下巻三八七頁) 「日蓮は、富木常忍から『法華経』の修行について質問を受け、『四信五品抄』を書いて四信の第一の「一念信解」と五品の第一の「随喜」とがその基本であると説いているが、インド学の立場から見たとき、この章は重要な思想も文化的事実も明らかにしていない。」(下巻三九一頁) 等と、訳注者みずから法華経中の主要両品に公然と、酷い毀?を加えている。正に、増上慢もここに極まれり、の沙汰である。「久しい以前にさとりに到達した」と説くのは方便ではなく、仏の真実の言である。昭和四十二年発行以来、数十刷を重ねる超ロングセラーとなった理由は「ほとけの命は永遠である。ゆえに、私たちの命も永遠である。そしてわれわれは、有り難くも、南無妙法蓮華経の下種益を等しく受けられる身である。」と説く法華経の紹介本であったからである。法華経が普遍宗教たる所以はこのことに尽きるのです。 ところで、サンスクリット語原典を、例えば「人は最高の人(仏)のために、美しく素晴らしい塔を造らせよう」(『分別功徳品』)等と卓越した和文に訳した博学者ながら、「人は何故、仏塔を造るのか」という人を思い遣るこころをいささか欠いているやに思われます。 これではパソコンで「北方領土返還」をロシア語に変換出来ない某国の国民と同様のそしりを免れ得ないと指摘して措きます。 二 本経文の前提条件について さて、篤信外護の富木常忍公は末代法華行者者位竝用心に関して 一、 諸法を観せんと欲すれば、心いよいよ闇々として観念すること能はず、仍って読誦を業とせんとすれば忿劇極まりなし、如何が修行して其の理を得べきや。 二、 肉食の事、時刻を経ず行水を用ひ、佛経に向ひ奉り読誦せしむること如何。また一宿を経るの後、行水を用ひず読誦せしむること如何。・・・ 等々の日常生活での実際上の事柄について質問をされた。大切なことは、それら質問の根底には禅定、智慧、戒律という三学の基本的な課題が横たわっていることでした。 これらの問いに対し、宗祖は先ず、末代行者の信解の程度即ち行者位を決すべきを先決問題とした。法華経本門の流通分の分別功徳品の四信と五品とは法華修行の大要、在世・滅後の亀鏡、法華経に説かれる唯一の行者位でり、其の四信の第一信と五品の第一の随喜品とを天台・妙楽の六即に配すれば名字即であると断定された。この名字即とは信じて未だ修行に移らない程度の位である。 『日蓮宗の教え』(監修日蓮宗勧学院 日蓮宗新聞社出版)の冒頭を飾る序分に、勧学院長 宮崎英修博士は 「問う、其の義を知らざるひと、唯南無妙法蓮華経と唱えて解義の功徳を具するやいなや」「答う、小児乳を含むに其の味を知らざれども、自然に身を益す、耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん」 (『四信五品抄』 上行宗祖真筆 五十六歳) 日蓮聖人のこの有名な一節を引用され、 「これは、赤ん坊が乳をのむのにその乳が甘いとか、からいとか、自分の母親の父が乳母のものか、牛乳か他の乳かと乳への区別・分別などしなくとも、与えられた乳を飲めば自然に成長し育っていくように、また天下の名医である耆婆の調整した薬はどんな病人も、難病に苦しんでいる人も飲めば必ず病が治り、難病にかかった人もその病を治すことができると言われています。(中略)たしかに法華経の教えを信じ、南無妙法蓮華経と唱えるならば自然に仏の功徳を身にそなえることができます。」 と、解説されています。宗祖の御指南のように、この遺文の一節は信仰の初め、人が入信するときのことを乳児の乳、病人の薬に喩えたもので、入信とは、素直に身を任せ、疑いを持たず、信じることであるというのであります。 『分別功徳品』は冒頭から、み仏が壽命の長遠を説くや、「大饒益」「無生法忍」を得る衆生、「聞持陀羅尼門」「楽説無礙?才」「旋陀羅尼」を得る菩薩、「不退の宝輪」「清浄の宝輪」を転ずる菩薩、「阿耨多羅三藐三菩提」を得る各所の菩薩等々、宇宙に存在するすべての者に大変革が生じます。「世尊は無量不可思議の法を説きたもうに、饒益する所有ること虚空の無辺なるがごとし」と。 では、世尊が説かれる「仏の壽命の無量なることを聞く」ことにはどのような意義があるのだろうか。『分別功徳品』は弥勒菩薩の歓喜の讃文に続いて流通分に入り、衆生が仏の寿命の長遠なることを聞いて一念信解をこころに生じた場合と、仏のことを知らず一心に五波羅蜜を修行した場合とを比較する重要な経文が示される。宗祖はこの経文を洞察されて、 「其れ衆生あって佛の寿命の長遠なること是の如くなるを聞いて、乃至、能く一念の信解を生ぜば所得の功徳、限量有ること無けん。」と、「もし人が膨大に長い時間を五波羅蜜を修行した」場合とを比べます。宗祖はこの例話を受けて『四信五品抄』では 「問う、末法に緯リテ初心の行者必ず円の三学を具するや否や。」 「答えて曰く、此の義大事為り。故に経文を勘え出して貴辺に送付す。所謂五品の初・二・三品には仏正しく戒・定の二法を制止して、一向に慧の一分に限る。慧又堪えざれば信を以て慧に代う。信の一字を詮と為す。(中略)」 「問うて曰く、末代初心の行者は何物をか制止するや。」 「答えて曰く、檀・戒等の五度を制止して、一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解・初随喜の気分と為すなり。是則ち此の経の本意なり。」 (『四信五品抄』) と述べている。初心は五度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定)などに気を遣わず、雑念無く本仏のもとで、お題目を一心に 唱えるべきである。と、示されたのです。初心者に対するこの要諦は宗祖が『分別功徳品』の文底秘沈から、事の一念三千に基づいて独自に導き出された日本仏教史上の一大発見です。 ところで、衆生が仏の寿命が仏の長遠なることを聞いて一念信解をこころに生じた場合と、五波羅蜜を修行した場合とを比較したことについてですが、これは一念信解と五波羅蜜とを比較したように思われますが、実はそうではありません。比較の前提条件である「仏の寿命の長遠なることを、聞いたか、聞かなかったか」が問題視されているのです。これがこの比較の正体ですが、宗祖はこのことについて、注意喚起をされていません。『分別功徳品』を読誦する者の重要な点です。しかも、仏の寿命の長遠なることを「きいた」との用語は、単に聞いたという意味ではなく「人すべての命も永遠である、と確信出来た」という聞いた後の反応を含む意味で使われているからです。そして「この確信」こそが我が法華経の本意、揺るぎない志高、速成就仏身への立脚点ではないかと思います。 三 五度を制止しての唱題(信唱)は慧学の範疇に留まるのか 次に行者の用心とは、三学六度に対する進退取捨の問題である。宗祖の学風は「依法不依人」でその鉄則により法華妙経の顕文を見て条理を尽くされている。すなわち、経文は初心の行者には布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度の中、前五度(戒学と定学)を制止し、慧学のみを許している。そこで、宗祖は以信代慧とすべきと教導された。慧に代わる信とは初心にあっては四信の一念信解、五品の初随喜品を基本的な態度とし、具体的な修行行為としては五字の題目を一心に唱えることである、と厳戒された。これは、富木常忍公の第一番目の「諸法を観ぜんと欲すれば、心いよいよ闇々として観念すること能わず、仍って読誦を業せんとすれば忿劇極まりなし、如何が修行して其の理を得べきや」の問いに答えたものです。付記すれば、この問いは三学の内の禅定と智慧にあたり、その他の質問はすべて戒律にあたる。拝察するに、宗祖はその他の質問が日常の不浄に関するあまりに細々したものであったためか一切答えておられない。 しかし、ここに少しく疑問が生じているのであります。「ひたすら題目を唱えるべきこと」は概念としては慧学の範疇に入るが、行為としては戒学に入るのではないのか。信じるがゆえに、他の一切を禁止しての唱題であるゆえ、戒学ではないのか?唱題は慧学の範疇とする『分別功徳品』の基本的立場に矛盾しかねないという疑問であります。 『宗義大綱読本』(日蓮宗勧学院監修 平成元年)の三大秘法の解出の中で、 「ところで唱題修業は末代の観心であるという認識を聖人が持っておられたことは観心本尊鈔に明らかな通りである。とすれば唱題は必然的に能観と所観とを兼備しなければならない道理で、所観の本尊と能観の題目と、それに修業の道場としての戒壇の三者が要請されることになって、佐渡流罪以降に唱題は本尊と題目と戒壇とに開出されることになったものと考えられる。また聖人はしばしば一宗は戒定慧の三学を具備していなければならぬと示されるが、その意味から考えると題目の宗教は戒=戒壇、定=本尊 慧=題目の三学を元来内包するものである。」と示されているので、筆者が抱いた前述の疑問はほぼ解消される。付言すると、『宗義大綱読本』で、戒壇とは、「修行の道場」「妙法五字の題目を受持する道場」と規定されています。 四 五品の第三信までは禁止し、第四信以降からは、「檀・戒等の五度」が必要となること さて、小児は確かに成長してゆきます。それが自然の節理です。乳から離乳食、離乳食から普通食となり、いつしか少年となり、青年となります。やがて生きてゆく上で食物生産やら栄養価値やら食生活あるいは疾病・衛生などに関する多くの知識を持たねばなりません。いつまでも心身共に純粋無垢な赤子でいられないのです。 一方、信仰面でも幼少期・青年期・さらには、壮年期、円熟期、完成期があるように思われます。無心で入った信仰が自分に合っているかどうか等々、煩悶しつつ、成長に随って自分の信仰について良い意味で深く考えるようになってまいります。成長過程にあって「滅後の五品」を私たちはどのように受容したらよいのでしょうか。在家信仰者としては、或いは出家者としては。それぞれの生活全般の中での修行はどうあったらよいのだろうか? み仏から、善男子よ、善女人よ、と呼びかけられるとき、現代の出家者と、在家者との間には社会生活上は相似ていても、人生上には全く異なる使命を有しているのです。 『分別功徳品』には出家・在家の言葉は見られますが、それぞれの修行や使命の異なりについては講説がありません。 『四信五品抄』は続けて 「疑いて云く、此の義未だ見聞せず、心を驚かし耳を迷わす、明らかに証文を引きて請う、苦に之を示せ。」 「答えて曰く、経に云く、「我が為に復塔寺を起て及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することを須いず」と。此の経文、明らかに初心の行者に檀・戒等の五度を制止する文なり。」 「疑いて云く、汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と針りを制止して、未だ諸の戒等に及ばざるか。」 「答えて曰く、初めを挙げて後を略す。」 「問うて曰く、何を以て之を知らん。」 「答えて曰く、次下の第四品の経文に云く、『況んや復人有って能く是の経を持ち、兼て布施・持戒等を行ぜんや』云々。経文分明に初・二・三品の人には檀・戒等の五度を制止し、第四品に至りて始めて之を許す。後に許すを以て知りぬ、初めに制することを。」 と述べられて、檀・戒は初心の行者には必要なく、第四品の兼行六度、第五品の正行六度へと上級を志すに随って、檀・戒が必須となることを示された。上行宗祖のこのご指南は言うまでも無く、妙法蓮華経分別功徳品の経文に拠るものであるが、戒の内容は何か? 先ずこの御書の文脈から、「檀・戒等の五度」は布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五波羅蜜を指すとみられる。ところで、三学の立場より六波羅蜜を分別すると布施・持戒・忍辱・精進は戒学、禅定は定学、智慧は慧学に分別される。この立場からすると「檀・定等の五度」という表現は不可思議で、「檀・戒等の五度」若しくは「檀・定等の五度」或いは「戒・定」という表現でなければならない。つまり、宗祖は「戒と定・戒」と戒を重複し強調されておられることになります。この短い問答の中で、「檀・戒等の五度」と三回も使用され「戒」を骨張されておられることは、宗祖はここで、何か特別の意図を教示されたかったのではないか、と拝察せざるを得ません。「戒」を特に強調されておられるので、或いは本門戒もしくは本門の戒壇へと論理を向かわせたかったのではないか、とも連想致します。 当時、宗祖は前年七月に五大部最後の『報恩抄』を書かれ、繰り返し打ち出してきた三大秘法の建立をこの書において、はっきりと宣言し、「本門の戒壇」を明確に位置づけされています。日々の宗祖の脳裏には三大秘法が連座し、その眼目たる本門の本尊・題目・戒壇が渦巻いていたと思われます。 「問うて云く、天台・伝教の弘通し給わざる正法ありや。答えて云わく、あり。末法のために仏留置給。(中略)天台・伝教の弘通せさせ給わざる正法なり。求云、其形貎如何。答云、一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。・・・二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有知無知をきらわず一同に他事ををすてて南無妙法蓮華経と唱べし。」 宗祖の三大秘法は、法華経に内在するあらゆるものを具体的に包括する実に巨大な構想であり、まさに、法華経三千塵点の時空を遥かに超える広大無辺なみ仏が、みほとけにおいて、み仏のみがお示し下される三大秘法であります。本尊にしても題目にしても戒壇にしても、曼荼羅かご本尊を飾り、題目を唱えれば、戒壇が発生する、と言うが如き安っぽいモノではなく、一閻浮提の本尊・戒壇。題目であらねばなりません。 五 第四信以降に「檀・戒等の五度」がなぜ必要か? 宗祖は『四信五品抄』で 「第五十人は初随喜の外なりと云ふは名字即なり。「教弥実なれば、位弥下れり」とい釈は此の意なり。四味三教より 円教は機を攝し、爾前の円教より法華経は機を攝し、迹門より本門は機を尽くすなり。「教弥実位弥下」の六字に心を留めて案ずるべし」。 このように、荊溪大師の釈を例に、法華経の行者の修行の進度・進展がもたらす位について触れます。止観第六には「法華以前の蔵・通・別の三教より円教は下々の人々を救い、また同じ円教といわれる中でも法華以前の通教や別教に説かれた円教よりも法華円教の方が広く下々の人々を救い、同じ法華経の中でも迹門よりも本門の方がより下々の人々を成仏させているのです」、とあり、荊溪妙楽大師の云われる「教弥実位弥下」に意義にしっかりと思いを致すべし、と訓戒しています。 宗祖のこの訓戒から、菩薩の行をめざす出家者は、決して自高にならないよう「檀・戒・の五度」に精励し、下々の人々と謙虚に相まみえなければならないことが読み取れます。 宗祖は更に、 「止観第六に云く、「前教其の位を高くする所以は方便の説なればなり。円教の位下きは真実の説なればなり。」弘決に云く「前教より下は正しく権実を判ず。教弥実なれば位弥下く、教弥権なれば位弥高き故に」と。又記の九に云く、「位を判ずることをいはば、観境爾深く、実位爾下きを顕す」と云々。」 (『四信五品抄』) 荊溪天台大師の釈を取り上げ、前教より円教の位は低いこと、教の権実により権教は高く、実教は低いこと、位を判ずれば観境深く、実教の位は低いことを明らかにされます。 「実るほど 頭を垂れる稲穂かな」の歌のように、謙下して自高ならずに「檀・戒の五度」に精励し下々の人々と相まみえるべきことを訓戒されています。 六 本門戒への展望 現在の四信、滅後の五品と天台の六即とで修行の位が高度になれば、「檀・戒の五度」もしくは智慧を含めた六波羅蜜が必要になることが判明しましたが、一方で伝統的な戒(学)に関することについて、宗祖は『四信五品抄』で 「文句に云く「問う、若し爾らば、経を持つは即ち是れ大一義の戒なり。何が故ぞ復能く戒を持つ者と言うや。是は初品を明かす。後を以て、難を作るべからず。當世の学者、此の釈を見ずして、末代の愚人を以て、南岳・天台の二聖に同ず。?の中の誤なり。」等云々。(中略)伝教大師云く「弐百五十戒忽ちに捨て畢んぬ」と。唯教大師一人に限るにあらず。鑑真の弟子如法・道忠並に七大寺等も一同に捨て了んぬ。叉教大師、未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば、これ怪異なり。市に虎の有るが如し。此れ誰か信ずべきや」云々。」 と、述べている。即ち、文句の第九の巻に「法華経を信じ持つことが第一の持戒であるならば、何故に次に至って復た戒を持てと勧めるのか。答う、初心の者の持つ戒は理戒といって経を信じることである。後に至って勧められる戒は事戒といって修行の進んだ第四品以上の者のことである。(中略)今の学者はこれらの注釈を見ないで、末法の愚人の修行を相似即の南岳や観行即の天台のような聖人と混同している。実に誤りの中の誤りというべきだ。 更に伝教大師は二百五十の諸々の戒律も忽ち捨てて了い、末法無戒説を主張された。唯一人伝教大師だけでなく、鑑真の弟子で戒行で名を残した学僧の如法・道忠の二人や並に奈良の七大寺の学者達も伝教大師の説に承服して戒律を捨て去ったのである。また、伝教大師は、末法の世に持戒の者がいるというならば、街に虎が棲んでいるという類であるから誰も信じないだろうと『末法燈明記』に説いている。 さて、天台と伝教両大師の修行に対する中心的な考え方が、上行宗祖の筆により歴然と出ている。天台の六即では六度の戒学は上級には必然的に要請されること、伝教大師は小乗の所謂二百五十戒を廃し末法無戒を説いて天台に追従している。では、日蓮聖人における戒学・本門戒はどのようであろうか?宗祖は『四信五品抄』で 「問ふ、汝何ぞ一念三千の観門を勧進せずして、唯題目計りを唱へしむるや。」 「答へて曰く、日本の二字に六十六箇國の人畜財を攝尽して一つも遺さず。月氏の両字に豈に七十箇國なからむや。妙楽の云く『略して経題を挙ぐるに、玄に一部を収む』叉云く『略して界如を挙ぐるに、具さに三千を摂す。』文殊師利菩薩・阿難尊者、三会八ヶ年の間の仏語、之を挙げて妙法蓮華経と題し、次下に領解して云く『如是我聞』と云々。」 「問う、汝の弟子、一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称うる其の位如何。」 「答う、此の人は但四昧三教の極位並に爾前の円人に超過するのみに非ず、将叉真言等の諸宗の元祖たる畏・厳・恩・蔵・宣・磨・導等に勝出すること百千億倍なり。請う、国中の諸人、我が末弟等を軽んずこと勿れ。(中略)罰を以て徳を惟うに、我が門人等は「福過十号」疑い無き者なり。」 と、題目とは妙法蓮華経であり、その五字に法華経一部二十八品のすべてが収められているので天台のいう様な理の一念三千、理の六度による修行は勧めず、題目の信唱を奨めるのです、と教示されています。 このことから、上行宗祖は原始仏教以来の修行の徳目たる迹化の六度(六波羅蜜)を事の一念三千により,信行重視の本門の六度へと姿を変えさせしめ、その上で、在家の初心には題目の絶勝を、出家上級の行者には本化の六度の戒行を勧奨されたものと拝解いたします。殊に、「破邪顕正」を宗旨とする日蓮門下の出家者の三学はいささかも懈怠あることなく、行学二道すべきを本門の戒の一角となすべきと思愚します。 以て、本門戒(壇)への展望は、宗祖の『四信五品抄』に示された要諦を基とし、本迹両門の流通十六品半に刮目をいたし、御遺文を渉猟するを宗と為すべきを課題とし、以て出門とします。 |
維 時 令和五年 二月 十五日 本圀寺大客殿にて |
〜京都 本山・本満寺入退山法燈継承奉告式〜 |
令和5年3月5日厳修 |
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第63世 森 日洸 新貫首猊下 |
入退山法燈継承奉告式を youtube で拝聴する(外部リンク) 収録時間 1時間22分 撮影:小倉 孝昭 |
弥生 三月五日 堂内にそよぐさわやかな春の微風に、対の幢幡がほのかに揺れる中、午後二時より厳修しました洛中・本山本満寺にての晋山式には僧俗合わせ、全国より二百余名のご参列を。 殊には、日蓮宗宗務総長 田中恵紳僧正、全国本山会会長 本山瑞輪寺貫首 井上日修猊下、京都八本山会本 立本寺貫首 上田日瑞猊下、全国莚師法縁隆源会総裁 大本山本圀寺貫首 早川日章猊下にご来臨の榮を賜りました。 晋山式の後は、ウエスティン都ホテル京都にて清宴を開き、ご出席の皆様へ新貫首 森日洸猊下からご挨拶を申し上げ、改めて祖願達成への誓いを述べさせて戴きました。 |
令和五年 三月 吉日 本山・廣宣流布山 本願満足寺 執事:望月 恵真 |
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奉 告 文 日 洸 南無佛 南無法 南無僧 南無輪円具足未曾有大曼荼羅御本尊 別しては 南無末法有縁の大導師高祖日蓮大聖人 廣布山本満寺開山玉洞妙院日秀上人 二祖以来歴代如法弘通勲功の先師先哲 諸天善神知見照鑑の御宝前に於いて 佛子日洸第六十三世法灯継承の儀を厳修し奉る 本山本満寺は応永十七年(一四一○)関白近衛道嗣公の嫡男 玉洞妙院日秀上人によって開かれその由来をもって近衛殿内道場と呼ばれ 本願満足寺と称していた 創建時 三萬坪のあった今出川新町上京区役所北西部附近は今に「元本満寺町」の町名で名残を留めている 天文五年(一五三六)法難により堂宇を消失したが 天文八年関白近衛尚道公の外護により十二世日重上人により現在地に再建 江戸時代に入りて 宝歴元年(一七五一)徳川吉宗公の病気平癒を祈願した由縁で徳川家の祈願所となり大いに栄えたり 戦後(一九四八)五十九世日政上人により境内復興現在の隆盛がなり七面堂の復興 六十世日嶋上人は境内修復事業の基を開き 六十一世日受上人 六十二世日章上人はこの二師の志 完成を祈願して 庫裡・書院・客殿・僧院・寶物庫・書物庫の修復を完成 境内を一新に至りしは 仏祖三宝 開山玉洞妙院日秀上人 二祖以来代々廣大慈悲の因寵なり 不肖日洸 大阪田中寺住職 師父 森日亮上人 母 まさゑの長男として昭和六年一月出生 旧制中学を卒業 国立大阪外事専門学校(現在 大阪大学外国語学部)入学 関西大学文学部英文科卒業(文学士) 昭和二十八年 大阪清風高等学校英語教諭として奉職 昭和四十一年三月 姫路法華寺住職 師父 日亮上人急病の為高校を退職して寺務手伝いをする 昭和四十二年姫路法華寺第二十七世の法灯を継承 爾来五十有余年 その間 戦後廃燼に帰していた山門をはじめ客殿 庫裡 本堂に至る迄新築 境内を一新 叉別に土地を購入し駐車場を設置 佛教会では姫路市仏教会会長 兵庫県仏教会副会長 大本山本圀寺九十九世加歴を得て法華寺住職を退転 院首を勤める 厚生大臣より民生委員永年表彰 宗門より一級法功章を拝受 是れ實に父母六親九族 師匠弟子等輩 特に檀信徒多くの支援協力の賜であり 独り日洸の活動には非ざるなり しかも本山本満寺前貫首 第六十二世 伊丹日章猊下の温讓にあまえ 六十三世の法灯継承の栄誉は一代の僥幸にして各聖各位の絶大な功徳の賜であり 益々我不愛身命但惜無上道に徹し 花は根に帰り真味は土にとどまるの祖訓を躰し報恩謝徳に精進せんことを誓い奉る 仰ぎ願わくは仏祖三宝 諸天善神 哀愍納受し給わんことを 南無妙法蓮華経 維時 令和五年 三月五日 本山 本満寺第六十三世 遠壽院日洸 和南 |
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「うえもなき 人の心の花かつら かかるも法(のり)の 縁(えにし)なりけり」 |
開山:玉洞妙院日秀上人 作 (総合司会 杉若恵亮師 選) |
披露宴 ウエスティン都ホテル京都にて |
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大本山 本圀寺貫首 早川日章猊下の祝辞 |
大本山 本圀寺 |
宗祖御降誕八百年 |
山科移転五十周年 |
大本堂落慶 |
〜慶讃音楽大法要〜
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慶讃音楽大法要を 【youtube】 で拝聴する 外部リンク(収録時間 1時間54分) 収録:小倉 孝昭 | ||
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日蓮宗管長猊下の祝辞 | ||
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付記 山科大岩御稜地移遷 中興之師也(大本山本圀寺 第61世 沙羅樹院日瑞猊下) 宗祖日蓮大聖人御降誕七百五十年慶讃・山科移遷第一期竣工の法会 昭和46年11月6日 |
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敬 白 文 大光山本圀寺今般三ケ日間に亘り宗祖日蓮大菩薩聖誕七百五十年を慶讃しその法筵を貼り 第一期浄業竣工の法会を奉行し併せて開山以来歴代の諸先師への報恩法要 及び國祷會を以て當山の再興祈願會を厳修し微衷を表し奉る 伏して惟るに七百五十年の往時 正に末法の初めなり 仏日西天に没し瞑暗の衆生本心を失し末法謗法の惑乱第五の五百歳に入る 闘諍堅固白法隠没権実に迷い正法を毀謗し堕獄の業を現ず 地涌の正導師 正像未だ出現せざる時なる哉 如来の滅後二千百七十一年仏説たがわずして本化の上首上行菩薩 正に久遠本仏の勅を奉じ末法の機を鑑し迹を日域に應現し給ふ 即ち大日輪「■」白蓮華に乗じ母胎に託し仏法東漸閻浮提の東 日本国を本地として降誕の瑞相を示し玉ふ 時にこれ貞応元年二月十六日なるかな 仰ぎ願はくは宗祖大聖人並に歴代先聖 山門守護の諸天善神等 利験擁護を垂れ五々百歳始 広宣流布 立正安国宗門興隆と守護せしめ玉え 別しては當山再興 山門鎮静一切無障礙と感応冥助を示現し給わん事 南無妙法蓮華経 昭和四十六年 十一月六日 大本山本圀寺 六十一世 沙羅樹院日瑞 敬白
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