御遺文

〔御入滅〕

波木井殿御報 1924 道の程別事候わで、池上までつきて候。みちの間、山と申し河と申し、そこばく大事にて候いけるを、公達に守護せられまいらせ候て、難もなくこれまでつきて候事、おそれ入り候ながら悦び存じ候。さては、やがてかえりまいり候わんずる道にて候えども、所労の身にて候えば不定なる事も候わんずらん。さりながらも日本国に、そこばくもあつこうて候みを九年まで、御きえ候いぬる御心ざし、申すばかりなく候えば、いづくにて死に候とも墓をばみのぶの沢にせさせ候べく候。
波木井殿御書 1931 釈迦仏は霊山に居して八箇年法華経を説き給う。日蓮は身延山に居して九箇年の読誦なり。伝教大師は比叡山に居して三十余年の法華経の行者なり。しかりといえども、かの山は濁れる山なり。我がこの山は天竺の霊山にも勝ぐれ日域の比叡山にも勝れたり。しかれば、吹く風もゆるぐ木草も流るる水の音までも、この山には妙法の五字を唱えず云うことなし。日蓮が弟子檀那等はこの山を本として参るべし。これ則ち霊山の契りなり。この山に入って九箇年なり、仏滅後二千二百三十余年なり。(中略)釈迦仏は、天竺の霊山に居して八箇年法華経を説かせ給う。御入滅は霊山より艮にあたれる東天竺、倶尸那城、跋提河の純陀が家に居して入滅なりしかども、八箇年法華経を説かせ給う山なればとて、御墓をば霊山に建てさせ給いき。されば日蓮もかくのごとく身延山より艮にあたりて、武蔵の国池上右衛門の大夫宗長が家にして死すべく候歟。たとい、づくにて死に候とも九箇年の間、心安く法華経を読誦し奉り候山なれば、墓をば身延山に立てさせ給え。未来際までも心は身延山に住むべく候。



戻る